江戸のころは武家の子弟を中心に、多くの人が儒教として朱子学のいわゆる四書五経の一つとして中庸という書物を学んだ。
だが明治の権力争いにうつつを抜かす無能な為政者たちが儒教を放逐してしまった。
仏教さえもその憂き目を味わうところであった・・・何とも島国根性の日本人てやつは~
その中庸の一つの条の中に~天を怨みず、人を尤めず~、という文言がある。
凡そ人間という生き物は何かにつけて、己の事は棚に上げて、人の所為にして責任を問いたがる。
人が逆境に陥った時このような心境に陥りがちである。
よく聞く言葉にこの世に神も仏もないのかと口をついて出る愚痴である。
この神や仏というのが中国人の天にあたる。
天を怨んだり人の所為にしたところで事態が好転する訳でもないのだが、人間という生き物の性根の弱さなのであろう。
これと似たような言葉が論語によく出て来る。
孔子がよくこの言葉を使ったという事でもあるのだろうが、流石に孔子の心境どの様で逆境を切り抜けたのであろうか。
だが、何かの時に孔子も~私を理解してくれる人は居ない~と嘆き、~私を知るは天のみか~と失意が口をついて出たと言われている。
ところが反面、人の己を知らざるを患えず、己の能なきを患えよなどと、弟子どもを叱咤していたらしい。~憲問篇~
とはいえ孔子も人間、ついぞ先ほどの愚痴が口をついて出る。
子曰く、われを知る莫きかな。それを聞いた弟子が口をはさんだその答えが・・・
~天をも怨みず、人をも尤めず、下学して上達す。我を知るは天のみか~
これ憲問篇に収載の言葉だが、孔子という男の不遜さ傲慢さが浮き彫りにされているような気がしてならない。
孔子には優秀な弟子たちが数多く存在した。
その彼らが孔子を理解していると思うのが師として当然のことであるはず、にも拘らず彼らの存在を全く無視した言葉であろう。
おそらく晩年の孔子は己を理解してくれるものは、この人間界では存在しないだろうという絶望感にさいなまれていた可能性、
そんな心のゆとりのなさが吐かせた言葉であろうか。
尤も、ゆとりのなさというより、孔子の思考はもう人間界から離れてしまった、己の運命を人間界から離れた天に見出そうとしたのではなかろうか。
そんな気持ちは弟子などにはとても理解できなかろうという言葉の表れと思うしかないような気がする。
そう思った気持ちの表れが傲慢さと不遜な気持ちを感じさせたのかもしれないと思っている。
孔子の傲慢さは老子にも指摘されてはいるのだが・・・
孔子がどのような考えで吐いた言葉でもいい、人が逆境に陥った時、天や他人に責任を転嫁していたのでは進歩がない。
あくまで己の責任で突破口を切り拓くしか道は残されてはいない。
そんな言葉なのであろう。