徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

石川や浜の真砂が尽きるとも・・・・・

2020-02-17 17:36:01 | 随想

石川や浜の真砂が尽きるとも・・・・・

~世に盗人の種は尽きまじ。

世に有名な石川の五右衛門が残した歌とされている。

実在性が疑問視されていたが、宣教師の日誌が資料となって実在が確認された様である。

この地球上に人間と言う生き物が現れて以来、悪人の種が尽きたことはない。

人間の本性が善なら、悪さをするものもなく、放っておいても社会秩序の乱れが起きることは少ないであろう。

下は小さな子供から、国政を動かしていると尊大に振る舞う輩まで、悪を行うものの種は尽きない。

現今の様に、隙あらば、他人のものを掠め取ろうとする輩も、現れないであろう。

放っておけば悪を為すと言うことは、すなわち根本が悪であるからで、その悪を抑え込むために修養が必要なのである。

善の心が悪へ走らないようにするためではない。

尤も性善説を唱えるものでも、人間放っておくと悪へ走るので、教育によってそれを矯正する必要があるとは言っている。

所詮、いずれの考え方であっても、人間という生き物は悪を為すのが本質であるようである。

 

元々が悪であるから、その悪が発現しないように社会規範が出来、刑罰を科し、社会から隔離しようとするのである。

旧約の神でさえも、己の意のままにならないときは、誰であろうと滅ぼしてしまう悪行を為す。

神が自分に似せて人間を作ったのだから、放っておいても、善行を行うなどと考えること自体が滑稽なのである。

神は己の意のままにならないものは平然と滅ぼす。

これなどは悪の権化であろう。

その神に似せて作られた人間が悪を為さないと考えること自体、無意味なのである。

人間社会の摂理は、悪の本性を抑え込むのが人間の修行であり、

悪を行ったものへの、報復即ちあらゆる刑罰や村八分など、集団からの隔離や排除なのである。

人間などと言う生きもの、様々な足かせが外れると、気の向くまま、意のままに行動する途方もない生き物なのである。

社会規範などと言う緩やかなものを作っても、なかなか従順に従うものが少ない。

網の目を潜って悪を為す者の何と多いことか・・・・・

孟子や朱子などは人間の本性は善などとは言っているが、

放っておけば悪を行うから、仁・義・礼・智などの徳を終始学ばせなければと言っている。

何故なら放って置くと悪を為すからだと言う。

これはすなわち根本すなわち性根が悪であると言っているのとなんら変わりはない。

旧約のアダムとイブにしても、責任逃れを、責任の擦り合いをしている。

人間の責任逃れ、責任の擦り合いはこの時から始まった。

ただ逃れるだけならまだ可愛い、責任を人に擦り付ける、愚かな行為を平然とやる。

親が親なら・・・・

そのアダムとイヴの子カインは嫉妬から弟のアベルを殺してしまう。

この嫉妬ってやつが、それ以来、未だに人間社会に、いや生き物の世界に充満している。

この嫉妬と言う心に起きる病が、様々な悪を引き起こしていることは、誰もが知っていることだろう。

この世の中の生き物、神に似せて作った人間がその大本、

神が横暴で、不公平である以上人間社会は、決して穏やかな平和な存在ではありえない。

アベルが死に、カインがどこかへ行ってしまって、それではまた作るか、と言って作り始めても、

親が親だけに、生まれる子の本性は変わることはない。

モーゼの十戒なども、読むにつれ人間の本性は悪であることを見越したような記述が並んでる。

その人間の悪を抑えることに終始した記述である。

そして神の何と嫉妬深いことか、驚くばかりである。

十戒を記してみよう。

この十戒も宗派によって解釈に違いがある様である。

以下はカトリックの言う十戒である。

 

簡潔に記せば・・・・・

わたしはあなたの主なる神である。

わたしのほかに神があってはならない。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

あなたの父母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

隣人に関して偽証してはならない。

隣人の妻を欲してはならない。

隣人の財産を欲してはならない。

 

旧約聖書は神の存在を前提として、最初はすべてが無であり、

その無から一切の万物を創造した神が存在する、という立場からの推論なのであるが、・・・・

ならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、予め弁えていることになる。

ならば、あらゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということになる。

私自身は、創造の神自体がいるなどとは思っていない。

だから、神が人間の根本を悪にしたという表現の仕方は、私の論理に矛盾がある様にも見えるが、

一切を創造する神がいないのだとしたらどうなるのか。

創造の神が存在しないというならば、神が作ったと言うあらゆるものはその本質を神に決定されること無いまま、

現実に存在していると言うことである。

この場合は、サルトルが言うように、実存が本質に先だつ、ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだと思う。

現にここで生きている人間それ自身を探求していくと、人間の本性は悪であって、

悪を発現させないために、様々な教育や、社会的措置が必要だと言うことになる。