大道廃れて仁義~
~国家昏乱、有貞臣
賢帝といわれた隋の文帝が初めて導入したは、科挙と言われる官僚へ登用するための手続。
古い時代は貴族たちが世襲で高位を独占する時代が続いた。
家柄ではなく公平な試験によって、個人の才能ある者をを官吏に登用する制度は、当時は非常に斬新な考えに基づいている。
しかし隋から唐の時代までは、その効力に見るべきものはなかった。
北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級を形成し、政治をはじめ、社会的にも、文化的にも大きな変化をもたらした。
科挙がその最大の要因だとされている。
科挙によって官僚となったものは地位と名声、更には最大の力を発揮する権力を得て、大きな富を築いた。
弊害は、時代を経るにつれて大きくなっていった。
科挙の試験のみうつつを抜かした世間知らずのものが、科挙に及第すると、その官僚たちは、現実の社会問題を軽視し、
政治や経済の実務や民草の生活には無能、無関心であった。
この科挙も中国の長い歴史の中で果たした役割は大きなものであった。
清朝末期、西洋文明を取り入れたため、廃止せざるを得ない様になって、科挙の制度は中国から消えさった。
扨、戦後猿まねとブリキの国として、諸外国から蔑まれた我が国では、儒教が依然として根底に流れ、
中国では遥か昔に姿を消した科挙の制度が形を変えて姿を表している。
儒教が根底に流れとは言っても、儒教自体は明治の代で姿を消した。
その残骸として科挙の制度の残骸が頭を出した試験制度である。
裁判官をはじめ、高級官僚は国立の一流大学出でなければ登用されない、学歴偏重の社会制度が我が国の本流となった。
子供のころから国立最高学府を目指して、社会の在り様や、出来事、人とのつながりを俗事として放棄し世間と隔絶した生活をなし、
学校の教科は従とし、受験のための塾通いで、受験勉強にうつつをぬかし、偏狭な人間形成をした世間知らずとして歪な成長した。
その様な歪な人間がエリートとして優遇されている。
エリートは確かに優等生であるが、人間として優れた資質を、あるいは優れた頭脳を持っているのかと言えば、それは否である。
そんな連中が様々な試験を得て任官し、現実社会を動かす世になっている。
その様な者たちによって占められた裁判官や高級官僚が行う裁判や行政の不手際のしわ寄せはすべて、国の民草の肩に掛かってくる。
歪な人間からは歪な施策しか生まれてこない。
年金にしても、介護保険にしても然り。
マヌ抜けた予測を基に作られた制度は、世間、世の中と言うものを知らない官僚共によってつくられ、
何度も何度も手直しをしなければ運用できない程に杜撰な制度が、今我が国にまかり通っている。
その制度が存続する限り修正され続け、その負担は総べて民草に掛かってくる。
何かの雑誌で、介護保険の負担額の増額と介護保険料の増額の記事を読んだ。
介護制度にしても、本来我が国の順風美俗は孝は親を敬い先祖を敬うのが儒教の教えに限らず、罷り通ってきた。
戦後核家族とか言って、家族が離れ離れに暮らすことは家制度の崩壊もあるが、政治の貧困も手伝って家族のきずなが希薄になっている。
とは言っても、生み育んでくれた親に対する孝を放棄してもいいということにはならない。
年老いた親を大切にするのは人間として見失ってはならない人の道である。
とは言っても、忙しすぎる世の中で、親の面倒を見るのはなかなか難しいのも事実である。
その面倒な介護を己が出来ないところを他人に頼って面倒を見てもらうというのが、介護制度の趣旨であるのも頷ける。
ところが政治屋や官僚共は何をとち狂ったか、老人の介護は介護される老人同士で行えとばかりに、
高額な介護保険料を老人のわずかな年金収入から巻き上げている。
介護するのは、介護をしなければならないのは、老人の子すなわち若年層の筈。
だとすれば己に代って介護を依頼する若年層から介護保険料を徴収するのが至極当然の論理。
そうゆうと、若い人からも取ってるよとは言うが、老人の保険料とは雲泥の差がある。
しかも徴収する年齢は随分と高い。
世間知らずの官僚や無能な政治屋共の考えそうなことではあるが、根本の考え方が全く違う。
日本の政治屋の頭のなかは、己らの給与は世界最高額。一兆何千億課の赤字など何のその・・・・
己の懐が肥えればいい、足らなければ法律を改正すれば事が済むと思っている。
官僚は官僚で天下り、下り先がなければ作ればいいと思っている。
何とも嘆かわしい国ではある。
年金生活さえできない民が国内にあふれかえっている。
~大道すたれて仁義あり、国家昏乱して貞臣あり
何時出る貞臣、日本という国に~