この菜根と云うのは人よく菜根を咬みえば、則ち百事為すべし、とあるに基くと言う。
菜根は筋が多く、これをよく咬みうるものは、物の真の味を味わい得る人物であることを意味する。
菜根と云う言葉には貧困な暮らしと言う響きもあり、その貧苦の暮らしに十分耐えうる人物であってこそ、
人生百般の事業を達成できるという。
何の選択も許されず、この世に放り出されて、生きていく、それは生き物の避ける事の出来ない宿命、
そしてそれが死への旅であるということ。
この世にあるとき、楽しく生きるのも一生、苦労しながら生きるのも一生。
人間である限り、楽に安楽に楽しく生きたいと思うのは誰しも同じ。
だが同じ楽しく生きると言っても有意義に生きたいと思う、これなどは儒教的な考え方であろう。
尤も、有意義に生きるなどと言うこだわり自体が重苦しい、儒教的なものの考え方なのかもしれない。
人間だれしも得る事ばかり、満たしてもまだまだ足りず、器一杯まで満たすのは辞めた方がいい。
功なりやり遂げたならば身を引くのが天の道等と言うのは道教的なものの考え方。
外物に振り回されて物事にこだわり、右往左往して、己を見失う様では安楽な人生は送れない。
物事に対する執着を捨てるのが良い、というのが禅の考えなのだろう。
道の姿、無為自然を追い求めていくと、いずれは悟りの世界へと入り込んでしまう。
物に対するこだわりの心を捨てるのは、禅も道教も同じ境地なのであろう。
一、 人生に処して、真理を住み家として守り抜く者は、往々、一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。
権勢に阿り諂うものは一時的には栄達するが、結局は永遠に寂しく傷ましい。
達人は常に世俗を超えて真実なるものを見つめ、死後の生命に思いを致す。
そこで人間としては、むしろ一時的に不遇で寂しい境遇に陥っても、真理を守り抜くべきであって、永遠に寂しく傷ましい権勢に阿るべきではない。
二、 世を渡ること浅ければ点染もまた浅し、事を歴ること深ければ、機械もまた深し。故に君子はその練達ならんよりは、
朴魯なるにしかず、その曲謹ならんよりは、疎狂なるにしかず。
処世の経験が浅いと、世俗の悪習に染まることも浅いが、経験が深くなるにつれて、そのからくりに通じる事もまた深くなる。
それ故、君子たるものは世事に練達になるよりは、飾り気がなく気が利かない方がいい。
礼節の末事に拘るよりは、粗略であるほうが良い。と注釈されている。
ここに機械と言う言葉が出てくるが、からくりとか権謀術数を言う意味に使われている。
機械と言う言葉は荘子辺りにも見かける。
荘子の天地篇に在る、孔子の弟子の子貢と老人の問答の中に出てくるのだが、面白そうなので、その概要を少し書いてみよう。
子貢が旅の途中で一人の老人に出合った。
その老人が畑作りのために、井戸を掘って、その中に入り瓶に水を汲んでは畑に注いでいる。
その様子を見て子貢は老人に声をかけた。
水をくむなら良い機械が有りますよ、能率が上がるのだが、あなたは欲しいと思いませんかと。
それで子貢はその機械の仕組みを説明するのだが、老人はその先生からその存在を聞いたことがあるという。
機械を持つ者は、必ず機械に頼る仕事が増える。
そうなると機械に頼る心が生まれる。
若し機械に頼る心が胸中に在ると、自然のままの純白の美しさが失われる。
そうなると霊妙な生命の働きが安定を失う。
霊妙な生命の働きの安定が失ったものは道から見放されてしまうものだと。
機械の事は知らないわけではなく、けがらわしいから使わないだけだよと、老人は言う。
老人は子貢に問う、お前さんあは何をしている人かね。
私は孔丘の弟子です。
そうすると、お前さんはあの博学で、聖人の真似をし、もったいぶった口調で衆人の上に臨み、一人で楽器をならしたり、悲しげな歌を歌ったりして、
天下に名声を売り込もうとしている者の仲間だな、と。
そうゆうお前さんの精神を忘れ去り、身体を捨て去ってこそ、初めて道に近付くくことが出来るであろう。
自分の体さえ納める事ができないものが、如何して天下を治めることが出来るものか。
子貢は茫然自失したという。
その話を孔子に話した。
孔子は子貢に・・・・
その老人は少しばかり混沌氏の術をなまかじりにして、その一を知って、二を知っていない。
心の内を処する道だけは知っている様だが、外の世界に処する道は全く心得ていないと。
この天地篇の荘子の後に続く考えは実に面白いが、この後を続けると随分と長くなりそうなので、機会があれば・・・・・
その天地篇の原文の一部・・・・
機械を有するものは、必ず機事あり。機事ある者は、必ず機心あり、機心胸中に存すれば、
則純白備わらず、純白備わらざれば、即ち神性定まらず。神性定まらざる者は道の載せざるところなりと。
荘子は自己自身の現存在を大切にする考え方の持ち主で、人間の個別的、具体的な真理を追究していた。
自己が単なる物として、或るいは他の者の道具として手段化されることには激しい拒否反応があった。
従って高度に発達した科学技術や機械の力によって人間が部品化されること、
すなわち間化されることに対する抵抗が荘子の思想の一つに数えられる。
現代のヨーロッパにおける実存主義と立場、その哲学が追及していると同じように人間の個別的、
主体的な自由を荘子も追及していたと言っていい。
とは言っても荘子の考え方がすべて実存主義的であるかと言えばそうでもない。
荘子の主な思想の一つであるとは言えるのだろう。
この菜根譚は儒、仏、道の教義を融合した処世の術言われており、古くから我が国にはいって来ていたらしく、
我が国の人々には随分と読まれたと言われている。
人生の指針として、読んでおいて損のない書と言えるのでは・・・・
儒教と道教は古来対立しながら、融合する事は無いにしても補完しながら中国の人々の行動を支配していたと云える。
だが、この二つの流れは人々の心の問題には立ち入ってこない。
その心の問題を補うかのように、この菜根譚は仏教の禅の思想を取り入れたと云う。
この三つを融合した人生の書としては格好のものであると云える。
多くの日本人に読まれたとは言っても、恐らく現代においては無用の長物に成り下がっているのではあるまいか。
参考文献
菜根譚 今井宇三郎 注訳 岩波文庫
荘子 福永光司 著 中公新書
世界名著 荘子 森三樹三郎 訳 中央公論社
中国古典の人間学 守屋 洋 著 新潮文庫
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