老子の特徴の一つは弁証法的思考にある。
老荘の思想は万物は固定したものではなく、変化、発展する。
従って、一切の物や現象は変化、発展の目で捉えなければならない。
孫子も戦争という現象をこの弁証法的思考で捉え、戦争と言うものの在り方を考えている。
人間と言う生き物がこの世界に現れて以来、争いが形を変えながら戦争と言われるものに変化していったが、この世に生き物が存在する限り、争い事は尽きる事はない。
けれども、その争い、戦争が形を変えながら続いても人間と言う生き物が争う限り、孫子の物の考え方は変わることはない。
この孫子の思想は戦国時代の対立抗争や興亡の歴史から学び取った哲学観と言える。
戦争に係わる一切の現象や戦術は固定的なものとは考えない。
それらは、すべて時、場所に応じて如何様にも変化する。
孫子が固定した戦術や戦い方を説かないのはこの様な弁証法的思考からきている。
老子は変化発展の中から一つの生き方を体得する。
孫子は戦争は変化するものと規定しながら、その変化発展の中にも、一つの法則があると考えている。
その法則を把握すれば戦いを有利な方向へと導くことが出来る。
老子は戦争を憎み、孫子は兵法を説きながら、戦争を忌避している。
老子の戦争論として、その兵法をそのまま孫子の兵法の中へ入れても、何の違和感もないほど、孫子と老子の弁証法的思考方法は似ていると言ってもいい。
彼らの思考のなかには、戦争には反対であるが軍備無用と言う訳ではないという考え方である、。
やむを得ず如何しても戦わねばならない時がある事も認める。
ただそれを基本として、それ以上に踏みこんで好戦的になることは厳重に警戒される。
それは滅びへの道だからであるという。
これらも、老子、孫子の考え方は全く同じと言っていい。
老子の兵法、その戦いに関する章は、三十一章に書かれている
夫、兵は不詳の器、物或悪之・・・不得已而用之、恬淡為上。
武器は不吉な道具だから誰もが憎む、けれどもどうしても使わなければならない場合もあることは認める。
その時は武器を振り回して、戦争に引きずられないように使うことである、と言う。
更に、六十八章にも戦争について書かれている。
天と並ぶものとも言って、古くからの法則であると書いている。
読み下してみると、
善く士たる者は武ならず、善く戦うものは怒らず、善く敵に勝つものは与にせず、善く人を用うるものはこれが下となる。
これを不争の徳と謂い、これを人の力を用うと謂い、是を天に配すと謂う。
古の極なり。
争わない徳、人の力を利用する、天と並ぶ、古くからの法則である。
孫子は百戦百勝は善の善なるものにあらずという。
戦わずして敵兵を屈服させるのを善の善なるものとするのである。
それは老子のいう不争の徳に通ずるものがあろう。
不争はいたるところで述べているが、ここでは闘争の場として、軍備について述べているのであろう。
七十六章に柔弱の徳として
柔弱と堅強を対比して柔弱の有為を説いている。
これは老子の中心的思想だと言っていい。
これら老子の考えることを孫子の中に取り入れても、全く違和を感じない。
この老子にしても、孫子にしても、当時の中国の思想とはいささか異なるのだが、弁証法的な思考過程をたどっている。
中国の当時の思想は観念的なものがほとんどで、具体的なものよりも抽象的な論理を説いている。
ヘーゲル的な弁証法思考を執る孫子の語りを見ると、兵法などと言うものは抽象的に説いてみても机上の空論よろしく、実践では全く役には立たなかろう。
万物は変転流転して発展していく、という考えに立つ限り、兵法に説く戦術、戦略は固定したものであってはならない。
情勢や環境に対応できる戦略でなければならない。
例えば明治の時代日露戦争における日本海海戦の東郷平八郎大将の敵前回頭などは、見事なヘーゲル的弁証法思考であり、
また兵は詭道なりを実証した戦略であったろう。
孫武の説く兵法を見ると弁証法的な考え方をしているのが見えてくる。
例えば
孫子曰く、凡兵を用いるその法は、将の命を君より受け軍を合し衆を聚むるに圮地には舍ことなく、衢地には交を合わせ、絶地には留まることなく、
囲地なれば則謀り、死地なれば則戦う。
道にはそこを経由してはならない道があり、城には攻撃してはならない城があり・・・・・・君命にはそれを受けてはならない君命がある。
この九変が持つ利益に通暁した将軍こそが軍隊を運用する方を弁えているということなのである。
どんな道が経由してはならないのか、その時その場の状況によって当然変化する。
それを的確に読み取る能力が必要とされるのである。
阿呆な将軍などは観念的には知っていても、いざ実際に遭遇すると兵の力を十分に駆使することはできなかろう。
孫武の兵法が、ただ読んですべてを暗記し、理解したと思っても全く役に立たないのは、弁証法的思考に基いて書かれた書であることを見過しているからである。
これほどはっきりと戦争と言うものを突き放して考える事は孫子の非凡さの所為であろう。
孫子を研究していたという昭和の軍部はこれ幸いと飛びついたのであろう。
年功序列の阿呆な頭を何百そろえても、孫子を実践できるとは思えない。
そう真珠湾攻撃の奇襲作戦であった。
真珠湾では確かに幾らかの効果は有ったろうが、戦争を左右するほどの作戦ではないことは誰が考えてもはっきりとわかる。
更に阿呆なのは、実際にそれを運用する指揮官が凡庸であった結果が戦況に如実に表れている。
北に敵の艦隊が迫っていることも知らず、二次の真珠湾攻撃を企てていたというから、阿呆の典型みたいなもので、
その挙句の艦隊への波状攻撃を喰らっての壊滅は当然の事と思える。
艦隊周りの偵察飛行さえ怠っていたという間抜けぶりは年功序列型の指揮官であればこその凡庸さを示している。
それに輪をかけて凡庸な参謀であり、指揮官を補佐するを任とする将官たちであったろう。
当時の日本人の頭では余ほどに優れた人物でない限りヘーゲル的な弁証法思考をするような人物はいなかったのかもしれない。
兵は詭道なりを見事に実践されてしまった典型であろう。
何事によらず、年功序列で指揮官を選ぶ愚を好むのは日本人の極みと言えるだろう。・・・そして破滅への道をたどる。
同時代の、孔子の学校はこの弁証法的なものの考え方がの出来るものを養成していると言えるのかもしれない。
この時代。引詩、引書と言われるが行われている。
この引詩、引書とは何を意味するのか。
詩、書は孔子の学校の教科書で、知識人の必須文献であった。
この頃、知識人、教養ある人材が求められており、孔子の学校はそうした人材の供給基地でああった。
それらの人々が外交使節として外国に赴いたとき、通信施設のない当時は一々連絡して支持を得るということは不可能である。
外国に派遣される人々は全権委任であったろう。
余程に頭の切れるものでなければ、千変万化する交渉ごとに対応することは不可能である。
その時、詩や書に精通していれば、それらを操って臨機に対応できたであろう。
論語の子路篇にそのへんの事が書かれている。
相手との交渉は千変万化で、引詩,引書出来る事が官僚の必須の条件であったと言っていい。
孔子は嘆くのである。
詩経三百篇を暗唱していても、これに政治の要務を任せても、うまくは果たすことができず、外国に使節として派遣されても、
全権をもって談判できないというのでは、まったく仕方がないではないか、と(子路篇)
弁証法的な物の考え方の出来る事が必要であったと言えるのである。
中国の古典は観念的なものが多く、抽象的な議論をするものが多かったとしても、
それらの詩や書を即座に引用できる能力は余程の鍛錬しなければ身につけることは出来なかろう。
論語の子路篇を読むと、孔子が弟子たちに政治への問答を通して弁証法的なものの考え方を植え付けようとしたのではなかろうか。
参考文献
孫子 浅野祐一 訳注 講談社学術文庫
老子 金谷 治 訳注 講談社学術文庫
論語 貝塚茂樹 訳注 中公文庫
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