徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

午後の思惟

2020-02-23 17:49:00 | 随想

洋の東西を問わず、神々として登場してくる者たちはどんな者だろうと思っていたのだろう、と今自分に問うてみた。

思い返してみても、改まって考えたこともなかった様な気がする。

それだから、神社に初もうでに行き、神棚に燈明を灯し、お伊勢さんと呼ばれる天照大神などを後生大事に祀ったりもしていた。

西洋の神はこれまで聖書なども部分的に読んだことはあっても、宗教的な意味で読んだことはなかった。

いま、新めて古典として、古事記や日本書紀、西洋のものとして旧約、新約聖書を読んでみると、今まで神とは崇高で、近寄りがたいものと、

思っていた自分の馬鹿さ加減が情けなくなる。

神と言うのは、何も崇高な近寄りがたいものではなく、願いを込めたり、救いを求めたりする存在のものではないことに気が付いた。

と言うよりも、神などと言うものは人間そのもの、この世に存在する人間一人一人の行いそのものが、神の行いなのだと言うことに気が付いた。

神って何だと、問いかけるよりも、一人一人の人間を見ればいい。

虐めをし、暴力を振るい、はたまた人を殺し、戦争などを起こして殺しあうことはすべて神の行いと全く変わらない、・・・・

と言うよりも神が行ってきた、そのものと何ら変わりがない。

神の言うことを聞かなかった、神との契約に違反したと言っては何万もの人々を殺戮する神・・・・・・

大量殺戮などは、旧約聖書を読んでいると神は日常茶飯事の如く、平然とと行っている。

嫉妬深くて、意のままにならないものは簡単に排除する。

人の居住しているところへ自分の意に叶うものを連れて行って住まわせ、争いを起こさせるなどはに日常茶飯事の如く行う。

これが神の行いなのである。

我が国の天照などは猜疑心が強く、争いをお越し、身内であっても、平然と他国へ追い払う。

素戔嗚を追い払い、月読を追い払って、お山の大将。

これを神として崇めていた。

それを、神国だ、いざとなれば神風が吹き、助けてくれる。

戦を起こしても神国は負けることが無い、と馬鹿な為政者が何百万人の国民を戦争に巻き込み、何千万人の国民に塗炭の苦しみを与えた。

性懲りもなく、戦争の悲惨さを知らない世代の為政者がまたもや集団自衛だなどとは過去の事、

今は憲法を改正してまで正規軍として再軍備し、軍備の拡張をし、他国を恫喝しようとしている。

葉隠れなど読んだこともない阿呆どもが己らよりはるかに優秀な多くの若者を、武士道とは死ぬことと見つけたり、という文句ひとつを頼りに、

特攻させて死に追いやたのを忘れ果て、またもや同じ轍を踏もうとしている阿呆がうごめいている。

今、穏やかに暮らしているこの国を、住まいする人々を、神の真似をしてモゴラやソドムの様に、壊滅させることはあるまい。

 


ギリシャ神話におけるアマゾネス

2020-02-22 18:28:36 | 随想

本で読んだか映画を見たか随分古の事になるので確かではないのだが、アマゾネスとは南米アマゾン川の流域にすむ女系戦闘集団だと思っていた。

ギリシャ神話を読み進んでいくうちに、このアマゾネスの神話が登場するに至って、何とも不思議な感じがした。

ギリシャ神話の中にアマゾネスの様な集団があるということは、古い時代の名残を感じさせる。

そしてまた、我が国の古い時代に、この話をなぞったのかどうかは知ららないが、我が国の話の中にも現実社会から隔絶した、

このような隠れ里がいくつも存在したのだろう。

特に、女だけの隠れ里が笹子峠の下にあった小説を読んだことがある。

この集団は女忍者、くの一の集団で、一人の族長によって支配されている、そのような設定であったように記憶している。

いわゆる世間から隔絶した隠れ里である。

集団を維持していくためには子を残さなければならないから、この里の女たちは優秀な胤を求めて、

全国へ散って優秀な人物の胤を仕込んでくるのだが、男が生まれるとある年齢に達した時、里から追放してしまう。

 

さて話はギリシャへ戻ろう・・・・

この不思議な女性集団の王国は北方の未知な地方にあると考えていたようである。

この国は女たちだけの国で、他国の国の男と交わって子を産んでいたようである。

女だけの国であるから男が生まれると、殺して、女だけを育てていたと言われているのだが、実際は如何であったか定かではない。

ある程度の年齢までは育てるがそれ以後は、集団から追い出していたと考える方がいいのかも知れない。

これには諸説がある様である。

因みに、アマゾネスとは乳なしを意味するらしい。

ギリシャ語でamazos・・・・このaは否定を意味し、mazosは乳房を意味するという。

神話はこのアマゾネスを色々な場面に登場させている。

この女性集団は弓が得意で、弓を引くのに邪魔な乳房を切り取ったという・・・・

それがアマゾネスと呼ばれる由縁らしい。

なるほど弓を引く姿を思い浮かべると、確かに右の乳房は邪魔になっている。

あの当時、現代の女性が弓を引く際に付ける胸当てなどは付けなかっただろうから、特に豊満な乳房は邪魔になったであろう。

神話に出てくる英雄たちが、このアマゾネスに絡んでくるのが面白い。

その中でも、特に名を知られているのがヘラクレス。

このヘラクレスはゼウスとアルクメネの間に生まれた息子。

ヘラクレスは人間の女から生まれた子で、ゼウスの妻のヘラの嫉妬深さで、随分といじめられて育ったようである。

このヘラ、ギリシャ神話を代表する様な悪女の一人・・・いや悪女神と言うべきか・・・・・

このヘラの奸策でエウリュステウスの家来にさせられ、どんな命令にも従わざるを得なくなってしまう。

それがヘラクレスの十二の難業と言われるものとされているのだが、その中にエウリュステウスの娘が欲したアマゾンの女王のアレスの腰ひもを取ってくるというのが、

ヘラクレスとアマゾンとの出会いであった。

アマゾンの国へ行ったときの時の女王はヒッポリュウテであったが、ヘラクレスに腰ひもを渡すことに同意したが、ここでも薄汚いヘラの奸策で、

ヘラクレスは女王の裏切りと思い、アマゾンの女王を殺してしまう。

腰ひもを手にしたヘラクレスは逃げ出してしまうのだが、ヘラの悪女の面目躍如と言う場面なのかもしれない。

次に、アマゾンとかかわるギリシャの英雄はテーセウス。

テーセウスはアテナイ王とトロイゼン王の娘との間の子。

テーセウスの一番有名な冒険として、アマゾンの遠征がある。

アマゾンがヘラクレスに襲撃されて、未だ回復しない内に襲って、女王アンティオペを連れ帰ってきた。

今度はアマゾン国がアテナイへ攻め込んできて市街戦となったが、セーテウスの勝利となる。

この戦闘は古代の彫刻家たちが好んだ題材で優れた作品が多いという。

この説には異説があり、セーテウスが連れ帰って、娶ったアマゾンの女王はヒッポリュテだという説もあり、その真偽は定かではない。

シェークスピアの夏の夜の夢ではアテネの公爵シーシアスはアマゾンの女王ヒポリタ・・・・・となっており、ヒッポリュウテ女王説を取っておこう。

このセーテウスと言う男いろいろ冒険談があるが、迷宮のミノタウロス退治もあるが、今回はアマゾンの話なのでしばらく置いておこう。

ただ、迷宮事件の時のアリアドネ、このアマゾンのヒッポリュテと言い、女関係は実にいい加減な男の様である。

ただこのセーテウスがヒッポリュテに子供まで生ませているのだが、この子供が女で有ったら果たして引き取っていただろうか。

恐らくアマゾンの国に引き取られたのではなかろうか。

この説を取るとヘラクレスとセーテウスに二度殺されたことになる。

これが神話の神話たる所以なのであろう。

アマゾネスの物語はさらにトロイ戦争にまでからんでくる。

この時のアマゾンは女王はペンテシレイアが率いていた。

ギリシャ神話のトロイア戦争では、ペンテシレイア率いるアマゾン族の女ばかりの軍隊を率いて参戦している。

ペンテシレイアは敵方の武将を何人も打ち取ったが、最後はアキレウスのために殺されてしまう。

アマゾンの女王ペンテシレイアの死に顔に英雄アキレスが恋をする。

人が死ぬとその顔は美しい、穏やかな顔になると言うがアキレスはこのアマゾンの女王の死に顔に恋をした。

自分の倒した敵将の上にかがみこむと、その美しさと若さと勇気に思いめぐらした時、自分の勝利を悲しんだという。

では何故アマゾネスがトロイア戦争に絡んできたのか、どうやらこじ付けになってしまいそうであるが、それでも何らかの理由が必要であろう。

アマゾンの女王がヘラクレスとセーテウスに二度にわたって殺された意趣返しのためにトロイアに味方した、と言う考え方もある。

同じ人間が二度に渡って殺されたというのも、神話ならではの話なのであろう。

アキレウスは海の女神テティスとプティアの王ペレウスの間の子。

このアキレウス女神によって不死身に作られたが、母の不注意で一か所に弱点があるのは有名な話・・・・

後世のギリシャ人たちによってアキレス腱と呼ばれた箇所である。

このギリシャ神話の時代、アマゾンとよばれる女性戦闘集団は一つだったとは限らないであろう。

いくつも存在したような気がする。

このペンテレシアの死は文学や美術にしばしば描かれているという。

このアマゾンの女達、彫刻や美術に描かれた像は乳なしどころか、豊満な乳房を見せている姿が実に美しい。

 

 

参考文献    

ギリシャローマ神話                        大久保博訳      角川文庫     

ギリシャ神話の悪女たち          三枝和子著      中公新書


日本人の気質~生産性が低いと言われて~

2020-02-21 16:09:27 | 随想

上杉鷹山の経営理念を読んでいると、日本人の労働というものに対する考え方が、アメリカ流の労働とは全く違っていることにずいぶんと奇異な感じがする。

鷹山の頭の緻密さには驚かされるが、彼の考えは藩の民が潤うことを第一の目標にしていることに趣旨が一貫している。

現今の政治屋のように、己が潤う事に主眼を置く為政者とは全く違っている。

政治屋は金が掛かると言った阿呆な政治屋もいたが、鷹山は自ら質素な暮らしをしたのとは人間が違うようだ。

人間の器というものがちょっとしたこんなところにも現れる、そんな輩に参政権を行使する阿呆な選挙民もいる。

政治屋は金が掛かるというのは次の選挙の為のもので、要は就職運動、国の政治のために使う金など、微塵もなかろう。

 

それはさて置き本論は日本の労働の生産性の低いと言われることにある。

 

生産性の低さは様々な原因が考えられるが、一企業内で解決できる問題ではなかろうと思う。

特にサ-ビス業や大手メーカーの部品納入に関する品質管理の厳しさは、諸外国では想像もつかないだろう。

中国へ逃げ出した多くの企業は、国内で要求するような高い水準の品質管理を要求しても、

とても国内で望んだ様な高い水準の品質を要求することはできないだろう。

日本の国民に後足で砂をかけて出て行った企業がその品質管理の悪さから作られた粗悪な製品を日本に向けて輸出している。

それが安かろう悪かろうの、製品として現われているのだろうと思っている。

様々な製品の優秀性はそれを構成する部品の優秀性にかかっていることは自明であろう。

 

レストランにしても、ホームセンターなどの大規模商用施設あるいはホテルや航空会社にしても教育関連のサービスにしても、

何にしても、日本ではお金を払ってサービスを受ける消費者は、何から何まですべてやってもらえて当たり前、という感覚になっている様な気がする。

そうでなければ、あそこは不親切のレッテルが貼られて、サービス業が成り立たなくなってしまう。

そして、それほどにもきめ細かく、何でもやってもらえるサービスが日本では当たり前になっているため、

サービス業に従事する人たちの負担は非常に大きなものになっているといっていい。

諸外国では自分の仕事以外はやらなくていいので、サービス業従事者の負担は日本のように大きくない。

職種職種で自分の仕事さえやっていればいい外国との差は大きい。

 

日本では、外国人から見て行き過ぎとも言うべき、素晴らしいサービスを提供してしても、その分を大幅に価格に上乗せするのが難しい状況では、

消費者にとっては行き届いた素晴らしいサービスを低価格で受けることができると言うことである。

外国のドラマを見ていると、ショップや野外のコーヒースタンドあたりに行列を作っているのを見かけるが、店員が急ぐ風もなく、

ただ淡々とこなしているに過ぎないけれど、客は文句も言わず黙って順の来るのを待っている。

つまり、待たなければいけない、という割りを食うのは客、つまり消費者の側なのであり、ショップやスタンドの店員の仕事はコーヒーを提供することだけだから、

お客が急いでいるかどうかなどの事情は客自身の都合であって、だから店員が急いでくれるということはない。

しかし、日本のように、どんなにサービスが良くて、消費者が満足したとしても、価格に反映されなければ、GDPは上がらないし、

労働生産性には反映されることはない。

 

(DGP(Gross Domestic Product)一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額のことである。)

 

店員が笑顔で接客する、きめ細やかな対応をする、お店をキレイに装飾する、掃除するなどの素晴らしいサービスを行って、

いかにお客が感動したとしても売り上げが上がらなければ労働生産性は全く上がらないわけである。

つまりこの現象は日本の労働生産性を下げていると言える。

アメリカではサービス対してはきっちり料金をとるから、日本人が提供しているレベルのサービスを期待するのであれば、

それが価格に反映されざるを得ないシビアさがある。

次に、日本人の労働生産性を下げている次の要因は何でもかんでも上司や周りに確認をし許可を得ないといけないことだろう。

これは日本人は決断力がない、とかいう話ではなく、日本人の労働や組織に対する考え方の構造的な問題と言っていいのだろ。

アメリカでは、ジョブ・ディスクリプションという、あまり聞いたことのない言葉の契約が、従業員と会社との労働契約書のようなものによって、

各従業員の仕事の範囲や責任の範囲、権限が決められているから、担当者はいちいちすべてのことに上司に確認をとる必要はない。

アメリカのドラマなどを見ていると、実にドライに割り切っていることに、日本人は違和感を感じるのだが、よくよく考えてみるとそれが当たり前なのである。

そのため、新しいやり方をすることで、経費が削れ、その分付加価値を生む機会があったとしても、多くの日本の組織はそういったチャンスを潰してしまう可能性がある。

日本の会社で働く多くの人は、ミスは絶対にゆるされない。

お客様に100%の品質のものを提供しなければいけない。

報告書も、プレゼンテーションも少しでもおかしいと思われることがないように完璧に仕上げようとする。

といった様な強迫観念を持っていないだろうか。

 

先にも述べたように、品質管理における、平均偏差にしても、ずいぶんと高いところに設定されており、延いてはそれが製品の完全性につながっている。

日本の製品の優秀性は下請け企業の部品の優秀性、品質管理の高さにあった。

それを中国の民に要求しても叶えられることはあり得ない。

必然的に安かろう悪かろうの製品が出来上がるが、いつまでの低賃金の雇用が続くとは思われない。

海外の賃金の高騰が問題になる日がすぐそこに来ている。

必然価格に跳ね返るが、そんな粗悪な製品の輸入はお断り願いたい。

後足で砂をかけて海外へ出た企業、それは覚悟してほしいものである。

アメリカの映画やドラマなどで、よく見かける場面は、肝心なところで機器の故障が発生して、思わぬ災難に遭ったりしている。

戦争の場面などで、武器が故障したために、死に至ったり、そうでなくても瀕死の重傷を負ったりするのをよくみる見る。

これは100%のものを提供するという考えから90%で事足りるとする考え方に由来する。

当然製品の品質は落ちる、故障などすればそのときに対応すればいいという考え方がアメリカ流の考え方なのだから、

故障は当たり前といっていいのかも知れないが。

 

不都合があれば、後で対応すればいいというアメリカ流の思考に由来する。

なぜなら、99%完了しているいるもの、あるいは完成しているものを100%の状態にもっていくには非常にコストがかかり、それは無駄な努力と考える、

不都合があればそのときに対応すれば足りるとする考え方によると言える。

レポート作成にしても、品質管理にしても同じ扱いだろう。

さらに100%というのはほとんどの場合、実際には不可能なことで、一生懸命それに近づけるために、多くの労働者が不必要な時間と労力を使っている。

大手メーカが下請け工場に依頼する部品などの品質管理はとても厳しい、

できあがる製品もアメリカ流に考えて作られたものとは比べものにはならないくらい優秀である。

ところが海外へ進出したメーカーは、海外でそれを要求することはほとんど不可能に近い、無理な事なのではなかろうか。

その結果、安かろう、悪かろうの製品が日本に持ち込まれる。

そんな気がしてならない、というより日本の企業のメイドインチャイナの製品を使ってみてどれほどの損害を被ったか測り知れない。

それでは労働生産性が低いのは当たり前といえる。

アメリカ人は多くの仕事において100%を求めることはあり得ない。

それ故、アメリカのホームセンターで何かを買ったとしても、結構な割合で不良品がああるのだという。

不良品は後から返金すればよいという考えである。

若い頃、外車が欲しくて、物色していたことがある。

そのとき言われたのは、アメ車は故障が多いからやめた方がいい、ということだった。

そのときは何故故障が多いのかなど考えることもなかったが、人種によるものの考え方の違い、則ちこれはアメリカの企業が無理に品質を100%にするよりも、

問題があったときに返金をしたほうが、効率がよいことを理解しているからだと、その考え方の違いに依るのだと分かったのは、ずいぶん後になってからである。

アメリカの企業はそれらの計算ができる、専門家を雇っているので、無駄に人件費をかけて100%を目指すことなどせず、

最適な利益を得べく戦略的生産活動を行っているといえるのだという。

さらに言えば、これもドラマから仕入れたものだが、銀行に代表されるように、一日の締め、レジ締めの際に一円程度間違っていたとしても、

パート2−3人をいやその他全員を残業させて金額が合うまで数えていては、人件費の方がはるかに嵩む。

そのドラマを見ていたときは、おそらくサービス残業だろうとは思ったのだが、無駄な労力を終やするのもだと思ったものだ。

個人個人にとっては正直、日本人の労働生産性などというものはどうでもよく、基本的には「いかに自分に有利に仕事ができるかを考えている。

すなわち楽に、稼げる、昇進するなど・・・・・有利になるように働くか」を考えて仕事をしている。

仮に、イノベーションを導入してやり方をガラっと変えたほうが、将来的に少ないコストで多くを生産できるようになるのだとしても、

企業の1担当者はそんな面倒臭いことをやろうとしないだろう。

それゆえ、本当に日本の労働生産性を高めていく必要があるとすれば、これは国や社会のシステムやルールを変える形で実現する必要がある。

個々の企業の問題ではないように思うのだが。

今の政治屋の頭では、そこまで考えている輩はほとんど皆無と言っていいのは・・・・・

 

江戸の頃老中が全員早い時間に退出する慣習になっていたという。

これは彼らが残っている内は、他の役人が下城することがはばかられるという、配慮であった。

現代の会社などで、上役が残っていると、用もないのにぶらぶらしているものは居ないだろうか、これなどはサービス残業とは言えないが、

サービス残業を強いられる伏線になりかねない。

国がサービス残業をもっと厳しく取り締まることなどによって、労働者の仕事時間がすべて価格に転嫁される状態を作ることが急務であろう。

ところが今の惚けた政治屋や官僚では、働く者にとって有利に作用する制度に手を付けることはあり得ないと言っていい。

日本という国の特徴であろう、すなわち弱者優遇はできうる限り差し控える、それが日本という国の支配層の頭の中の構造である。

労働者に無理を強いればなんとかなってしまう以上、経営サイドからすると、イノベーションを用いた効率化などによって生産性を上げていく必要性を感じなかろう。

仕事内容を特定せずに、会社側が従業員に何でもやらせたり、全くそれまでと関係のない職種の業務をさせたりできるシステムは、おそらく日本特有のものと思われる。

今はどうかは知らない、昔見たドラマはそんな風に描いていた。

それが世間一般の企業のあり方であったのだろう。

新入社員だから、かかってくる電話を全部とらなければいけないとか、社員全員で朝の掃除をするとか、日本の企業の多くで見られる風景ではなかろうか。

そういったことは専門性がある仕事ができる人の時間を無駄に使って効率を下げていいることにすら気がつかない、

アメリカあたりはそんな細かなことにもシビアな態度で臨んでいると言うことなのだろう。

当たり前ではあるが、アメリカではどんな仕事でもジョブ、ディスクリプションに基づいて従業員は仕事をしている以上、

上司は仕事を自分の判断だけで部下にさせることはできないだろう。

一部、日本の会社でもジョブ、ディスクリプションがある会社もあると聞いたことはあるが、これも真似ごとで、実際にはJDにない、

掃除やお茶汲みをさせられることが多いと聞いたことがある。

日本でJD制を定着させるには、法律でJDにない仕事を労働者の同意を得ずにさせた場合には、罰則を設けるなどする必要がある。

これとても、今の政治屋の能力では、いつになる事やら、永久にならない可能性の方が高い。

企業や、上位管理者の考えは、それが嫌ならやめればいい、それが切り札である。

ケネディーが惚れ込んだという鷹山に今、日本の国を預けたらどんな施策を行うだろうと常々思う。

日本の企業は江戸の商人の商売の仕方がそのまま姿を変えて現代に現われている、そんな気がしてならない。

だとすれば生産性の低さなどは取るに足らないことなのかも知れない。

鷹山の優れた頭脳の中には、さすがにアメリカ流の経営術はなかったろう。

だが鷹山の残した伝国の辞は単なる経営の指針ではなく、国家の指針であった。


不可解な聖母マリア信仰の謎

2020-02-20 16:05:27 | 随想

外国の映画やドラマを見ている時、マリア像に祈る場面をよく見かける。

このマリア崇拝、キリスト崇拝より強いところがあるとも言われている。

マリア信仰って何・・・・・ってことになるのですが、聖書にも殆どと言っていいくらい登場してきません。

しかもマリア崇拝っていうのを見ると、殆どがマリア像を拝んでいる。

カトリックなどでいう、ロザリオの祈りっていうのはマリア崇拝を意味しているとみていい。

マリア像を拝むって言っても、キリスト教は偶像を禁止していたのでは・・・・・

仏教では偶像崇拝は禁止されていないので、何となく見過ごしていて、気にもしなかったがモーゼの十戒を読むと、俄然、記になる場面である。

あの十戒の場面で、十戒を破ったり、他神に心を移したと言っては随分と多くのものが殺されている。

偶像云々は後の事にして、何故聖書にも祈りの対象とされないマリア信仰が多いのか、この不思議をキリスト教者はどう解釈するのだろうか。

ところで、つい先頃見た古い映画で、牧師にマリアの無原罪懐胎の話をと持ちかけてる場面に出合った。

この無原罪懐胎って、初めて耳にする言葉で、なんだろうと思って調べてみた。

この無原罪と処女懐胎とは別個の事であるのだが、ここではなぜ無原罪なのか、キリスト教にとっても教義の根本に関する重要な問題だと思うのだが・・・・

無原罪の御宿りとは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れと咎を存在のはじめから一切受けていなかったとする、

カトリック教会における教義であるという。

無原罪懐胎とも・・・・

何故マリアが無原罪なのか、説明は苦しい。

如何説明しようと、キリスト教の根本を揺るがす、最重要な問題ということを認識しなければならない。

無原罪と言うのは、原罪を背負わないで生まれたということ、何故無原罪なのか、説明はつくまい、説明しろと言ってもどだい無理な話・・・・・

無原罪の御宿りの教義は、「マリアはイエスを宿した時に原罪が潔められた」という意味ではなく、

「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」とするものである。   とwikipediaは記している。

マリアの母がアンナだとは…初めて知ったのだが・・・・・

このアンナにしても、マリアにしても、何処の馬の骨か系譜など全く不明な女。

そのほか、聖書などにも、マリアが何故原罪を免れていたのかの説明は何処を探しても、見当たらない。

こんなもの論理的に説明できる代物ではないのだから・・・・・・

キリストが人々の原罪を背負って十字架に架かった、と云うのがそもそもキリスト教の根本なのだから・・・・・・・

この世に無原罪のものがあっては困るだろう、それが論理というものだ。

宗教なのだから論理などどうでもいいというのならそれでいい、宗教の論理など信用しなければそれでいいのだから・・・・

僅かに、マリアが処女懐胎を告げる天使が「恵まれたもの…」(ルカ福音書)と言っているのは無原罪を示すと言っているのがある・・・・・

が苦し紛れのこじ付けとしか思えない。

先の映画で、質問された牧師が、苦い顔をして逃げ出したのも当然であろう。

 

生半可な牧師や宗教者では、すっきり答えられるものなど皆無であろう。

同じキリスト教でも宗派によって、全く考えが違うのだから、如何にいい加減な話であるか自ずと分かろう。

人は皆、原罪を背負っているというキリスト教の根本原理を、いとも簡単に曲げることが出来るということは、

この後も無原罪の者が現れる可能性があるということを意味すると解することが出来るだろう。

もはや、キリストが人々の原罪を背負って十字架に架かったということ自体が意味を為さなくなった。

キリスト教教義の崩壊としか言い様がない。

キリスト教内部からこのような無原罪思想が現れるということは、ユダ以上の裏切りと言われても仕方るまい。

とは思うがこんな宗教を何千年にもわたって信じてきたものが哀れ。

この世に生まれ来る者が、アダムやイブの罪まで背負って、罪人にされたんでは堪ったものではないのだが、

キリスト教徒でなければ関係ないものが、目くじら立てても仕方あるあるまい。

しかも無原罪は時としては認めるというのだから、なんともいい加減な宗教ではある・・・・・・

原則は一度破るともはや原則ではなくなってしまう、次々に破られるということ、これに歯止めをかけることは難しい。

でも何故、マリアが原罪を背負っていないのか、知りたいのが人情というもの・・・・

マリア崇拝って、どうして起こってきたのだろうと調べては見たが、聖書にはマリアについては殆ど記されてはいない。

無原罪懐胎などと言うもの自体、カトリックが19世紀になって初めて、正式に教義のの中に取り入れられたらしい。

西欧の教会などへ行くと、マリアの肖像ばかりで、キリストのものを探すのに苦労するくらいだという人もいる。

モーゼの十戒を見ると確かに、偶像を作ってはならないと記されている。

ロザリオの祈りに使うロサリオの先端に付いたあの十字架も、厳密に言えば偶像と言えなくもない。

聖書のあちこちを読み散らかしてみると、次々に疑問が湧いてくる。

たったこれだけの事にでも、苦しい説明をしなければならないのが聖書と言うものらしい。

聖書っていうものが矛盾に満ち満ちているのは、つぎはぎだらけの寄せ集めの書だから仕方のないことなのかもしれない。

偶像崇拝についてはまたの機会にして、マリアについて・・・・・聖書をめくってみても、殆ど何もないと言っていい・・・・・

疑問に感じたことを思いつくままに書き綴ってみた・・・

旧約聖書のアブラハムから延々と辿ってきた系譜が、マリアの婚約者ヨセフまで来て、その後の系譜は突如として聖書から消えてしまった。

以後はマリアの処女懐胎から始まるイエスだけが浮かび上がるが、延々と書き連ねられた系譜は何のためだったのだろうか・・・・・・

アブラハム、ダビデの子孫は・・・・その系譜は何処へ消えたのだろう。

後のキリストの12人の弟子にしても、アブラハムや、ダビデとは全く関係のないガラリや湖の漁師・・・・

出自など判然としない、それこそどこの馬の骨かわからない連中。

その様な連中によって、キリスト教は広められた。

イエスは神によって孕まされた女から生まれたと言うだけで、系譜とは全く関係のない人間・・・・・

ギリシャ神話風に言えば、半神・・・・人間と神の合の子。

とは言っても、マリアが神と交わったとは書かれていない。

マリア自体もヨセフの婚約者と言うだけで、辿るべき系譜もない、どこの馬の骨かわからない女としか思えない様な聖書への登場である。

それを突如として無原罪だと言われても、おいそれと納得できる性質のものではなかろう。

如何やらカトリックの指導者たちはごり押しが好みの様だ。

と書くと、マリア崇拝の人々は目をむくだろうが、事実その辺を歩いている娘と何ら変わりのない女としか思えない。

ギリシャ神話などでは、神と神が交わったり、神と人間が交わって、子をなすことはあるのだが、

キリストの父なる神はどんなトリックを使ったのか、人間の乙女を孕ませてしまった。

まあ何しおうヤハウエーでは論理もへったくれも何にもない滅茶苦茶阿呆な神。

それが近代においてカトリックでは、キリスト信仰よりマリア信仰の方が強いらしい。

信心など、鰯の頭も信心からと言われるほどだから、人が何を信じようとかまわないが、処女懐胎以外聖書には登場することもない、

マリアと言う女が如何してそれ程の信仰を集めるようになったのだろうか・・・・・・

マリアにそれ程の神性を見出させる根拠は何なのか・・・・・

人の心って解らないと、つくづく思う。

神によって孕まされて、イエスを産んだ、そのイエスの神性を借り受けているとしか思えないのだが・・・・・

そうすると、宗派によっては、イエス信仰よりもマリア崇拝の方が強いというのは、どう説明するのだろうか・・・・・

そうするとマリアは処女懐胎でイエスを産んだとしても、婚約者がいるマリアにとって、婚約者との子はどうなるのだろう。

少なくとも、神の子を孕んだ、処女懐胎は永遠に処女であらねばイエスの神性さえも疑わしくなる。

イエスが神の子であり続けるためにも、マリアは永遠の処女である必要があった。

そう思うのは間違いだろうか・・・・

血の繋がりと言うのは、ある場合にはとても重要な意味を有する。

徳川の時代、大奥なるものが存在した、その存在意義は将軍の種、将軍の血筋に疑惑が起きないことを確保するためであった。

だが、使徒伝を読むとイエスには兄弟がいる。

使徒伝に以下のような記述がある。

1:14彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

と云うことは、普通に考えると、イエスを産んだ後、婚約者ヨセフと結婚し、子を産んだということになる。

この兄弟たちは、母マリアを通してイエスと血の繋がりがあるということである。

このマリアと言う女、神の子を産んだり、人間の子を産んだり忙しい女である。

無原罪の女から生まれた子、すなわちヨセフとの間の子は何故原罪を背負っているのか・・・・・・

最もイエスの兄弟たちという表現は血のつながりのない親しい取り巻きの事を言っているのかもしれないのだが・・・・

イエスの時だけの処女懐胎で、イエスの兄弟はヨセフの子であるとすると、子連れの長屋のおかみマリアを、イエス以上に崇め奉っていることになる。

マリアを崇め奉るには処女懐胎でイエスを産んだ、永遠の処女である必要がああるのでは・・・・・、

処女性を失ったマリアに、神性を認めることは無理であろうと思うのだが・・・・・

その様な女をどうして無原罪などと言う特例を認める・・・・・教義の崩壊のなにものでもない。

それゆえか宗教者はキリストとは兄弟ではなく、従弟だと苦しい説明をするのだが、使徒伝の記述は誤りということになり、

聖書の中に誤った記載があることを認めるということにもなる。

ということは聖書の記述は、都合によっては誤った記述である場合もあるということを認めることになる。

キリスト教義の破綻と言わざるを得ない。

またマリアについて書くこともあるだろうが、今日はこのくらいにしておこう・・・・・


翻訳って何だろう・・・・

2020-02-19 16:32:10 | 随想

世界の十大文学などと著名な作者のものが並んでいるが、何を基準にしているのだろうと思う事が度々ある。

世界の様々な言葉で書かれた文学を、その言葉を読みこなせる人が読んで初めて、その文学を評することが出来るのだが・・・・・

翻訳されたものを読んでいては、その文学自体を評することは難しい。

何故なら、そこに翻訳の巧拙が加わるから、翻訳ものを読んで、その文学自体を自分の感覚で評することは不可能であろう。

ただ筋の面白さだけなら、翻訳の巧拙は関係ないが、作者の内心は伝わらない。

外国の文学をはじめ、様々な論文や解説書を読むとき、原文を読む人はそうは多くあるまい。

殆どの人は翻訳ものを読むことになるのだが、原文では本当に翻訳で表現された様な語感なのだろうかと思うときが可也ある。

同じ原作者の訳本が、数社から出ている時は良いのだが、一社だけからしか出てなくて、翻訳が自分の感覚と合わない時が一番困る。

哲学は哲学を学んだ人、医学は医学に通じている人、法律は法律に通じている人が翻訳しなければ話にならない。

とは言っても翻訳しながら自分で読むならいざ知らす、人にも読んでもらうためには、日本語にも習熟していなければ話にならない。

翻訳者は必ずしも日本語に習熟しているとは限らないのである。

外国文学と言われるものなど、翻訳の巧拙によってかなり興味をそがれることがある。

例えば、ドストエフスキーの罪と罰を読み比べてみるといい。

訳者によって、最初のほんの数行だけで、その情景描写が、かなり違う。

全く別の本を読んでいるのかと思うほどに違う。

この人、日本語を知っているのだろうか、などと思うことがある様な翻訳にあたるときがある。

人物の描写で、ほんの僅かな表現の差によって、人物の性格に微妙な相違を感じる事もあり得よう。

日本人なら誰でも日本語を知っている・・・・とんでもない。

日本語の微妙な表現の差で、受ける感じは全く違ってしまう。

それを承知の上で使うのでなければ、日本語を知っている内に入るとは言えない。

ただ一つの単語であっても、簡単に翻訳してもらっては困るのである。

英語、ドイツ語、何処の国の言葉でもいい、和訳辞書で一つの言葉を調べても、ずら~っと十個ぐらい言葉が並んでいる事がある。

その一語一語は微妙に意味が違うことがある。

それを作者が表現しようとしたものとして、正確に選択して初めて翻訳したことになる。

日本語と言ってもいろいろある。

幼児の話す日本語、小学生の書く日本語、几帳面な人の書く日本語、専門家や学者の書く論文調の日本語などなど・・・・

翻訳物を買うときは少なくとも数ページから十数ページ、読んで自分の感覚に合うもの以外は買わない様にしているのであるが・・・・・・

先日、題名だけを見て買ってしまった本がある。

何故なのか、自分でも不思議に思うのだが、トイレにでも行きたくなって、慌てて買ってしまったものなのだろう。

帰って早速読み始めたのだが、数ページも読まない内に何とも言えぬ違和感に襲われた。

小学生の作文を読んでいる様なまだるっこしさ、いらだたしさを感じていた。

気が付くと、文節が短めであるのはいいが、文末にその原因があることに気が付いて、もうその本は読む気が失せてしまった。

子供の作文を読んでいる様な・・・・

あるいは子ども相手の童話を読んでいる様な・・・・・・

童話を読むときはそのつもりで読むから、抵抗は感じないのだが、一般の翻訳ものとして読むとき、

原文は本当にこの様な表現しかしていないのだろうかと思ってしまう。

英語かドイツ語なら、原文を読んで見たいような気がする位、馬鹿らしさを感じてしまう。

文末に書かれているのを少し拾ってみると・・・・・

 

行ってしまったのです。

結論を下しました。

しませんでした。

娶りました。

選ばれました。

刻まれていました。

迎えられました。

しませんでした。

したのです。

語りました。

 

これが次から次へと文節ごとに続くのである。

この「~ました」「~であります」「~です」調の連続は小学生の作文調で一冊読み切るにはとても抵抗がある。

この言葉、日本語としては、丁寧な使い方ではあるが、書物の物語として読むとき、~ました。~でした。~いました。

と言う文末は文節が短めだけに、この~ました調が文末ごとに出ては、とてもうるさく感じてしまうのである。

この人物について書かれたものは、他にも幾らかあるだろうからと、先日書棚を整理した時に、

数箱の段ボールの空いているのに直行と相成った。

この原作者は古典のものを書いていた人だけに、多少惜しい様な気もしたのだが、~ました、~でした、

の連続はイライラが募って精神衛生上良くない。

書物は心を広げるためのもの・・・・・それが反対に作用しては何のための読書かわからなくなってしまう。

 

翻訳ものを読むときは、少なくとも数ページは読んで見て、自分の感覚に合うかどうか確かめるのがいい。

それでも、一冊を読み終えるとき、途中、何か所かに首をかしげるような訳文に出合うことは数知れない。

翻訳ものだから仕方のないことかもしれないが、日本人が日本語で書く書物の様な滑らかさが感じられないのは困ったものである。

翻訳者の日本語力の、文章力の不足なのかもしれない。

漢文などを読むとき、何処で区切るかによって全く意味が違ってしまうことがある。

人によっては、一字を上に付けるか、下に付けるか、その人の読み方の相違なのだろう、訳文を読むとき、あれっ、

こんな文だったかなと思って、前に読んだものを引っ張り出すときもある。

丁寧な人は、註でそれを指摘してくれる人もいることはいるのだが・・・・・

日本語って難しいな~ってつくづく思う。

専門書などはその分野の専門家に翻訳を依頼するのがほとんどだが、この専門家の語学力たるやはなはだ鬱陶しい。

翻訳しながら書物を読むとき、己ではそれなりに日本語として通用しているのだろうが、翻訳を文章にしたものとはかなりニュアンスが異なる。

哲学自体難解な言葉を使いたがる輩が多いのだから、きっちりとした日本語でなければとてもそのちょやの言い分を理解することはできない。

二重苦である。

そのとっつきにくいために、読んですらすら理解することなどできないような翻訳が日本という国に横行して、翻訳者も恥じることがない。

原作が難しいのだから仕方がないと思っているのだろうが、翻訳者が手間暇かけてわざわざわかりにくい翻訳にしているという事だろうか。

そうゆう翻訳が日本の翻訳書に少なくないのは日本語の難しさの所為とばかりは行っていられまい。

その様な翻訳は読者に対してのみならず、原作者に対しても失礼であろうと思うのだが・・・・・