私の知っている母や母とのことを書いてみようと思う
今年89歳になった
母は兵庫県の豊岡養父の出身
戦争中、教員が少なくなって免許がない人が教えていたことがあるらしい
代用教員と言ったそうだ
母は良くできて6人兄弟の5人兄の末っ子であるが
兄たちが皆「千代ちゃんは代議士にでもねるんちゃうか!?」と言っていたそうだ
そんな頃ニッカボッカをはきグライダーに乗って降りてきたときの写真が残っていた
代用教員になって養父から尼崎の兄のところへ居候しながら小学校へ勤めていた
大阪大空襲の前
その後京都の四条大宮の兄のところに移る
そして私の父と結婚するわけだ
5歳の子を連れている政治家の卵となぜ結婚をしたのか?
自分が果たせなかった代議士をつくりたかったのか?それは解らない
小さなころ5歳から小学校5年までは出町近くに住んでいた
母の経済力で父も私も暮らしていたのではなかろうか?
大学を出ていない母は慶応義塾の通信教育を受けていた
スクーリングに夏休みになると東京へ一人で出かけ
父と私は留守番である
スクリーングが終了の日に合わせて父と私は東京へ行くのである
そして父の郷里の山形へ行ったり日光へ行ったり・・・小旅行をした
教育者の母はなんでもよく教えてくれましたねえ
夏休みは板のルーを使わないホワイトソースやブラウンソース
でもあんまり上手やなかったな・・・・・よーこげてた
ワンピースを縫ってくれたんですが
キオツケしてないといけないような
腕廻りが窮屈でしたがせっかく創ってくれたので夏中着てましたねえ。。。。
刺繍・レース編み・けいとの編み物・・
編み物は母は手が硬くて風合いなんて全く無視
だから私は手が緩い目
突然ピアノが家にやってきて
帰ってきた父がびっくりした日もありました
それからピアノは練習日の土曜日だけ突貫工事でちょっと弾くだけ
『妙ちゃんは音大無理やけど幼稚園の先生くらいやったらいけるなあ』と先生に常々言われていた・・・
結果進学に困って保育科に行ったのだから
母がピアノを買ってくれなかったら『幼稚園の楽しさ』を知らずのままだったかもしれない
夏休みの母の出勤にピアノ教則本を持って行って音楽室のグランドピアノを弾いていたな・・・
浴衣を教えるから座りなさい!と言われ縫った夏
私の若いころは一重もあわせも縫ったといわれながら
何とか自分のものを縫ったのは二十歳頃か
その次の年また縫いなさい!と座らされ
はい、4つに折って4つに切る!
と言われるまま
切ってしいました・・・・・・
2枚をまた半分にし4か所縫い足し・・・短い浴衣が出来ました
これで絶対忘れませんね・・・
ため息をついていた母を思い出します
そういえば・・・
小学生の時に誕生日はいつもサンドイッチと紅茶でした
そのサンドイッチは絶品で綺麗な仕上がり・・へたなし・・・・
皆が羨ましがってくれましたね・・・
そうそう・・教員だったので参観日はいつも欠席で父が来ていましたが
勤めていたので毎週土曜日はセットに行って髪をきれいにしていました
勿論服はスーツであつらえていましたよ・・・きっと・・・・
そのコート・今、私が着ています
育ての母でねばならないや世間体を気にしていることに
嫌気がさして
こんな人はいらないとか・・・ずいぶん反抗的な気持ちでした
本格的な介護が始まったのは2003年です
それからひとつづつ
ほんとうの親子になったような気がします
☆一生仕事をすること(子育てだけなら育ってしまった後虚無感になるから)
☆社会に育ててもらったのだから奉仕ボランティアは積極的にして社会に貢献すること
☆宗教を持つこと
まあこんな感じだったかな・・・・
今年89歳になった
母は兵庫県の豊岡養父の出身
戦争中、教員が少なくなって免許がない人が教えていたことがあるらしい
代用教員と言ったそうだ
母は良くできて6人兄弟の5人兄の末っ子であるが
兄たちが皆「千代ちゃんは代議士にでもねるんちゃうか!?」と言っていたそうだ
そんな頃ニッカボッカをはきグライダーに乗って降りてきたときの写真が残っていた
代用教員になって養父から尼崎の兄のところへ居候しながら小学校へ勤めていた
大阪大空襲の前
その後京都の四条大宮の兄のところに移る
そして私の父と結婚するわけだ
5歳の子を連れている政治家の卵となぜ結婚をしたのか?
自分が果たせなかった代議士をつくりたかったのか?それは解らない
小さなころ5歳から小学校5年までは出町近くに住んでいた
母の経済力で父も私も暮らしていたのではなかろうか?
大学を出ていない母は慶応義塾の通信教育を受けていた
スクーリングに夏休みになると東京へ一人で出かけ
父と私は留守番である
スクリーングが終了の日に合わせて父と私は東京へ行くのである
そして父の郷里の山形へ行ったり日光へ行ったり・・・小旅行をした
教育者の母はなんでもよく教えてくれましたねえ
夏休みは板のルーを使わないホワイトソースやブラウンソース
でもあんまり上手やなかったな・・・・・よーこげてた
ワンピースを縫ってくれたんですが
キオツケしてないといけないような
腕廻りが窮屈でしたがせっかく創ってくれたので夏中着てましたねえ。。。。
刺繍・レース編み・けいとの編み物・・
編み物は母は手が硬くて風合いなんて全く無視
だから私は手が緩い目
突然ピアノが家にやってきて
帰ってきた父がびっくりした日もありました
それからピアノは練習日の土曜日だけ突貫工事でちょっと弾くだけ
『妙ちゃんは音大無理やけど幼稚園の先生くらいやったらいけるなあ』と先生に常々言われていた・・・
結果進学に困って保育科に行ったのだから
母がピアノを買ってくれなかったら『幼稚園の楽しさ』を知らずのままだったかもしれない
夏休みの母の出勤にピアノ教則本を持って行って音楽室のグランドピアノを弾いていたな・・・
浴衣を教えるから座りなさい!と言われ縫った夏
私の若いころは一重もあわせも縫ったといわれながら
何とか自分のものを縫ったのは二十歳頃か
その次の年また縫いなさい!と座らされ
はい、4つに折って4つに切る!
と言われるまま
切ってしいました・・・・・・
2枚をまた半分にし4か所縫い足し・・・短い浴衣が出来ました
これで絶対忘れませんね・・・
ため息をついていた母を思い出します
そういえば・・・
小学生の時に誕生日はいつもサンドイッチと紅茶でした
そのサンドイッチは絶品で綺麗な仕上がり・・へたなし・・・・
皆が羨ましがってくれましたね・・・
そうそう・・教員だったので参観日はいつも欠席で父が来ていましたが
勤めていたので毎週土曜日はセットに行って髪をきれいにしていました
勿論服はスーツであつらえていましたよ・・・きっと・・・・
そのコート・今、私が着ています
育ての母でねばならないや世間体を気にしていることに
嫌気がさして
こんな人はいらないとか・・・ずいぶん反抗的な気持ちでした
本格的な介護が始まったのは2003年です
それからひとつづつ
ほんとうの親子になったような気がします
☆一生仕事をすること(子育てだけなら育ってしまった後虚無感になるから)
☆社会に育ててもらったのだから奉仕ボランティアは積極的にして社会に貢献すること
☆宗教を持つこと
まあこんな感じだったかな・・・・