太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

「明治期の基準太鼓台」・箱浦屋台に想う

2019年08月20日 | 随想

高松市玉藻町の香川県立ミュージアムで「祭礼百態」(香川・瀬戸内の「風流-」)展が開催中である。(2019.8.3~9.7 ※終了)

2F展示会場には、標記の明治時代の太鼓台・箱浦屋台が、現今の太鼓台と比べるとかなり小さいが、当時のままで復元・展示されている。太鼓台文化の好事家にとっては4回目(?)となる展示ではあるが、その存在そのものに改めて熱い視線が注がれ、新しい発見も見い出されているように思う。

甚だ貴重な存在の箱浦屋台-ここでは2012年に刊行した『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』の28ページに書き記した「まとめ-箱浦屋台を〝活かす〟提案」について、再度掲出してみたい。当該ページは、箱浦屋台を縷々紹介した後に書かれていて、今日的にもなお色あせることはなく、屋台存在の意義が著されているように思う。

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(『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』28ページ・「まとめ-箱浦屋台を〝活かす〟提案」)より。

箱浦屋台に出会って25年が経つ。「明治の基準太鼓台」と位置づけた箱浦屋台も、これまで何度か私たち太鼓台文化圏のささやかな注目を浴びてきた。なかでも香川県立博物館(現・香川県立ミュージアム)での二度の組立て・展示は、かなりのインパクトがあったように思う。

2回目の展示が終わり、約5年になる。記憶が薄れかけてきたが、当時の存在感のあった展示を思い起こし、箱浦屋台が今後どのように自らの役割を果たしていくのか、貢献できるのかという点について、若干述べておきたい。

5年前、箱浦屋台は旧山本町・河内上組太鼓台と並んで展示された。(今回の「祭礼百態」でも、この両太鼓台は展示されている) 制作年代的には、箱浦が明治8年から逐次、片や河内上組が明治26年から、両方とも連綿と続いた太鼓台であった。河内上組の太鼓台も非常に存在感があり、明治中・後期の姿をよく伝える太鼓台として大変貴重な存在であるのは間違いない。だが、やはり約20年近い差には意味がある。明治維新前後の太鼓台を彷彿とさせる明治8年の箱浦屋台が、平成の「今にある」こと自体、如何に意義深いことなのか、稀で貴重なのかが、ようやく多くの太鼓台研究者の間で理解されてきた。

明治8年は、今から遡ること高々135年程前でしかない。この間に、近隣の太鼓台は、ほとんど例外なく競うように巨大化し、華美に突き進んで行った。表面的な発展を繰り返し、類型的な巨大太鼓台が闊歩する現今の文化圏となった。このような文化圏の現況では、まず、先人たちの太鼓台に対する営みや思い入れなど、知りたくても知るすべが無い。過去の文化を知る遺産として、一体何が遺されているのだろうか。追体験できるような古い太鼓台の装飾品などは、まず見ることはできない。

箱浦屋台では明治期を通じ、制作年代が判明している装飾品がたくさんある。これは箱浦屋台にとっては大変な強みだ。特に、「刺繍太鼓台」が主流の北四国において、古い刺繍作品をまとう箱浦屋台の存在には、実見して視覚で感じ取れるという意味において、確かな事実に裏づけされた客観的資料的価値が高い。

このような視点を踏まえ、箱浦屋台だけにしか果たせない「貢献」ということを考えてみたい。私は箱浦屋台に対し、その存在の歩に見合った何ほどかの貢献を果たせるよう、ぜひ〝活かして欲しい〟と願う。そのための一例として、寄贈・保管中の香川県立ミュージアムに対し、次のような前向きな提案を行いたい。是非共「箱浦屋台調査報告書」(仮称)を、画像をふんだんに入れて作成・発刊して欲しい。印刷物でなくともネット上の情報発信でもいい。

香川県は面積・人口共にささやかな県だが、一方では西日本に誇れる太鼓台文化圏の中心県でもある。そのお膝元に、年代的にも由緒正しい太鼓台があり、しかも箱浦屋台は明治期の面影を色濃く遺す装飾の数々をまとっている。明治から昭和という、太鼓台刺繍の発展・隆盛期を生き抜いてきた太鼓台の〝生き証人〟は、文化圏広しと言えども、現在ではまず見当たらない。

私は常々、箱浦屋台を「明治期の基準太鼓台」と唱えている。上記のような視覚的に理解できる報告書が身近に存在すれば、各地の古い太鼓台探究時の尺度として大いに活用され、箱浦屋台としての独自の貢献も果たせるものと思う。もしそのような報告書が計画されるのであれば、今回の太鼓台復活支援活動で培った太鼓台文化圏各位の熱意を結集し、箱浦屋台を将来に〝活かす〟ことに、是非協力させていただきたい。

太鼓台は分布エリアが語るように、我が国が誇れる庶民大衆の文化である。しかし残念にも、未だ外観の優劣だけが話題となる稚拙な側面をも合わせ持っている。そのような我田引水に振り回されている場合ではない。瀬戸内海域における太鼓台の分布は極めて高密度で、その体験人口は西日本で約2,300万人(我が国人口の18%)にも達している。これほど各地多くの人々が太鼓台を受け入れたのには、何らかの普遍的な理由があるに違いない。私たちの先人たちは、何を考え、最初の太鼓台に接したのだろうか―。

明治初期、沖行く大型廻船の望める荘内半島の先端近くで登場した箱浦屋台。箱浦屋台がまとう太鼓台・古刺繍の数々が、各地太鼓台との関連性を語り、古刺繍の物語を説いてくれるはずだ。その全存在が、私たちが置き去りにしてきた太鼓台の歴史を、必ず解き明かす「大きな力」になってくれるものと期待したい。(終)

★参考

  

当時の新聞記事/詫間町教委2001.4刊『わがふるさと』からコピー転載/明治8年の平桁(けた)と初代蒲団〆-一部、西条市・越智登志正氏撮影

三豊市山本町河内上太鼓台(2000.10)

(終) 

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