太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団〆の幅広化について(1)

2021年12月13日 | 研究

草創期・蒲団型太鼓台の蒲団〆

蒲団部がより堅固な枠型に発展した各地の蒲団型太鼓台の蒲団〆(蒲団締)は、今日では、ほぼ全ての他方で帯幅をはみ出す横広いものへと変化・発達している。ただし、蒲団を積んだカタチとして誕生間もない蒲団型太鼓台の蒲団〆では、その〝〆(締)〟の名の通り、積み重ねられた蒲団部の型崩れを防ぐことを主目的としていたため、蒲団〆の帯自体が幅狭いものであった。今日の太鼓台に装飾されているような幅広で、それぞれの蒲団部4面に2筋づゝ飾られたものではなかった。後述の画像のように、蒲団〆は〝4本の長い帯〟であった。

草創期の蒲団型太鼓台では、今日的な剛性のある蒲団枠などは用いてはおらず、柔らかい素材(綿を入れた本物の方形の蒲団・籾殻や藁や葦を用いて本物蒲団に見せる構造など)で蒲団部が構成されていた。こうした柔らかい形状の蒲団部は、運行時の激しい動きが当たり前の太鼓台では、型崩れや崩壊の恐れがあったため、殊更注意深く〝固く固定〟しなければならなかった。蒲団型太鼓台の誕生から今日に至るまで、このカタチの太鼓台を奉納してきた地方の人々の苦心は、〝如何にすれば、美しい型崩れのしない蒲団と成るか〟の一点に尽きていたのでは無かったかと思われる。現在の私たちは、先人たちが長年かけて考案したであろう剛性があり型崩れのしない蒲団部を手に入れているが、草創期の蒲団部は、実は〝型崩れのし易い、悩ましい積載物〟であったものと思われる。

「なぜ柔らかい蒲団を積んでいたか」という点に関しては、下図のように、主として当時の三河以西では遠州以東に比べ、方形の〝大蒲団〟をいち早く用いられていたことが影響していたものと考えている。方形・大蒲団の発祥地と目されている大坂は、後背地が綿作の一大産地であったことから、高価な換金作物を高額製品として販路を広げる必要があり、その製品化を目論んだものと考えられる。比較的簡単な作りの方形の大蒲団は、格好の高額な綿製品となった。〝蒲団は氏神への奉納(立派な大蒲団は、御旅所で神様が夜に用いる寝具と認識された。そのため、現在でも夜間に蒲団を下して太鼓台を運行する地方は数多い)〟と捉えた大坂商人(綿製品を扱う当時の呉服商人)たちは、草創期の蒲団型太鼓台を一種の〝宣伝・広告塔〟と捉え、それまでの簡素な太鼓台の上に寝具の蒲団として積み重ね、それまでの太鼓台を〝高級な蒲団型太鼓台〟に昇華されることに成功したのではなかろうか。

蒲団〆のルーツ(最も古い時代の蒲団型太鼓台に採用されていた蒲団〆)と言えるものは、絵画史料や現存する地方の太鼓台から想像すると、積み重ねた蒲団部の中央で十文字に縛り付けるだけの、ごく簡素なスタイルのものである。蒲団型太鼓台草創期では、蒲団〆は主目的である〝蒲団部の固定〟だけを考慮されていて、今日的な装飾的要素は見られず、細紐やさらし布で固定した簡素なものであったと考えられる。

本物蒲団を積み重ねた愛媛県愛南町深浦の蒲団型太鼓台(やぐら)は、蒲団部の中央で十文字に縛った形状の蒲団〆を採用している。蒲団部がゆさゆさと揺れても、小型の太鼓台の場合には、これで十分に持ち応えることができた。後ろ2枚の播州地方の絵馬に描かれた十文字の蒲団〆の太鼓台は、恐らく深浦と同型の本物蒲団型か、その発展形であったと考えてよい。(3枚目絵馬は嘉永元年1848奉納、最後の画像は姫路市のK・S氏提供、安政5年1858奉納絵馬)

 

更に、現役の十文字蒲団〆は、深浦以外でも、愛媛県伊方町(旧・瀬戸町内の四つ太鼓、三机・川之浜)や、紀伊半島・三重県熊野市蒲団型太鼓台(よいや)等でも見ることができる。熊野市の「よいや」に関しては別稿にて詳しく紹介しているので、併せて参照いただきたい。

蒲団〆の発展

やがて積み重ねられた蒲団部が、今日的形状のもの(剛性のある枠型の蒲団、厚みが増し見栄えを高めた蒲団、上下の蒲団枠同士を結束して蒲団部全体を一体化したような蒲団枠など)に近づいてくると、太鼓台で最も人目につく蒲団〆の役割も大きく変化してくる。それは、それまでの〝縛り固めるを越えた〝装飾性の強化〟という観点である。勿論、装飾性を高めた蒲団〆の出現と言っても、今日的な蒲団〆の帯幅を越えた横広の蒲団〆ではなく、あくまでも蒲団〆の帯幅の範囲内に収まるものであった。その初期に登場したと思われる太鼓台として、愛媛県八幡浜市磯崎(いさき。旧保内町、磯崎は佐田岬半島の北側・伊予灘に面している)の四つ太鼓等、幾例かをを列挙しておきたい。下画像は順不同にて、左から、磯崎(3枚)・高松市牟礼町宮北落合(2枚)・観音寺市伊吹島(3枚)。これら太鼓台の蒲団〆は、今日のように蒲団部4面に各2筋の蒲団〆、計8筋に分断されたカタチではない。実は長いこのカタチこそが、現在見られる豪華な蒲団〆のルーツに近いカタチだと考えている。

     

下は、蒲団〆が今日の様に前後左右の4面にそれぞれ2筋ずつ、計8筋に分断された太鼓台のもの。しかしながら、刺繍された龍は蒲団〆の横幅内に収まっている。前から、美馬市脇町(3枚)・三豊市詫間町箱浦の明治8年製の初代蒲団〆と明治41年製の蒲団〆を飾る太鼓台(3枚)。

       

(終)

※続編は、後日「蒲団〆の幅広化について(2)」にて掲載の予定です。

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