太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団〆の幅広化について(2)

2021年12月14日 | 研究

蒲団〆の幅をはみ出した幅広の蒲団〆は、どのような状況の下、登場したのだろうか。

前回(1)から続く。

やがて剛性の備わった蒲団部を3畳・5畳・7畳と高く積み重ねられたカタチの蒲団型太鼓台が、造り替えられる毎に〝上にも横にも大型化し、それまでの柔らかい蒲団部を積んだ太鼓台はおろか各種形態の太鼓台をも駆逐し、名実ともに太鼓台文化圏の主役として各地を席巻するようになる。前回(1)で述べたように、見物人の目に最もつき易い斜めの蒲団部4面は、格好の装飾の場となってくる。言わば、多くの刺繍職人の腕の見せ所〟として、蒲団部の周囲4面が位置付けられてくる。そうなると、それまで蒲団〆の幅の範囲で装飾されていた幅狭・簡素な刺繍等は、〝〆(締)るから〝飾る〟という目的へと大きく転換し、4本の長い帯状の蒲団〆は分断され、4面×2の8筋の〝装飾のみが目的〟の幅広い刺繍へと変化・発展していく。このような、剛性の備わった蒲団枠の登場と蒲団〆を飾る部位(蒲団部の各4面)の広がりが、現在の帯幅の外側に張り出した装飾重視の蒲団〆となっていったものと想像できる。

それでは具体的に、今日的幅広の蒲団〆へは、⑴いつ頃、⑵どこで、どのような具体的状況の下で変化し、採用されていったのだろうか。幅広の蒲団〆採用に至った経緯について、以下のような拙い自論で概説したい。

前述の⑴~⑶を解明し、客観的に証明・結論づけることは、我田引水の根強い太鼓台文化圏の現状においては、相当に困難であると考えている。それならば、自分が実見してきた範囲内で、自信を持って発信できることを述べてみたい。まずは蒲団〆が幅広に変化・発展する〝予兆〟があったのではないか、という点の探索を試みた。その試みの中から〝蒲団〆の図柄はどういうもので、その表現の変化はどうであったか〟を探っていった。蒲団〆に採用されている図柄には圧倒して龍が多い。この龍が、蒲団〆に巻き付くようにして縫われていることが、現在でも多く見られる。それが当初では、帯幅内でくねくねと表現されていたが、いつの頃からか、僅かながら蒲団〆(帯)に巻き付くようにはみ出した表現の龍・蒲団〆が登場してくる。〝龍刺繍の帯への巻き付き〟が、幅広の蒲団〆となる予兆の第一と考えている。

下画像は、龍の刺繍が帯幅内にあしらわれている蒲団〆である。最初の画像は寛政10年1798)の大坂・難波神社の太鼓台で、蒲団部一面に刺繍らしきがあしらわれていて、当時の最も豪華な部類の太鼓台であったと考えられる。(『摂津名所図会 』)この蒲団〆に〝雨龍らしき〟刺繍が確認できる。前回「蒲団〆の幅広化について(1)」で紹介した保内町磯崎の四つ太鼓の蒲団〆に近い。次の画像は1830年頃の西条祭に登場した〝みこし〟であるが、こちらにも龍らしきが帯の幅内に刺繍されている。ただ残念ながら、蒲団天部の描写からは、蒲団〆が長いものなのか8面に分解されたものなのかは、判断が尽きにくい。いずれにしてもこれらの絵画史料から、18世紀末頃から19世紀前半にかけて、蒲団型太鼓台が既に剛性を持つ枠型に変化・発展していたことが客観事実として理解できるのではないかと思う。同時に、蒲団〆の帯幅内での刺繍であったことが推測できると思う。

やがて太鼓台の規模や装飾は、造り替えられていく毎に、大きくなり豪華さを増していく。その過程で、蒲団〆も最初の帯幅内から徐々にはみ出し、やがて蒲団部を覆いつくすような巨大な現代のものへと変化・発展していった。以下の画像では、香川県まんのう町・大向太鼓台(1枚)・観音寺市・本若太鼓台(3枚)・三原市幸崎町能地・ふとんだんじり(1枚)・虎の蒲団〆(1枚、大は観音寺市・上若太鼓台、小は三好市池田町・中西太鼓台)・観音寺市伊吹島・東部太鼓台(2枚)・三豊市詫間町・箱浦屋台(2枚)・三豊市高瀬町・下麻太鼓台(1枚)・西条市・下喜多川みこし古写真(1枚、明治末期頃、西条市・S.H氏提供)の各太鼓台を、時代を追って紹介したい。

大向と本若の蒲団〆は、共に龍虎の図柄である。大向の蒲団〆の制作年代は不明。本若は、明治12年(1879)-明治43年(1910、3枚目の画像。三豊市豊中町・福岡太鼓台)-昭和9年1934)と続いて同じ図柄を採用していて、その発展過程の詳細が分かる。能地は、大崎下島・大長を経由した旧・新居浜の太鼓台であるが、龍蒲団〆に限っては、大正末年頃には既に古物であった香川県豊浜町辺から伝来したものである。従って、制作年代的には明治中頃以前にまで遡れるものと思う。虎の蒲団〆については、明治6年(1873)に創始した上若の代名詞的存在であるが、もしかすればこの二つの蒲団〆は時代を越えて再会・対面したものかも知れない。伊吹島・東部には文化2年(1805)の蒲団枠保管箱が現存しているが、図面は幕末期の見積り粗図面で、蒲団〆は古いが長い帯状のものが現存している。箱浦は、明治8年(1875)に始まる〝西讃・東予地方における明治期の基準太鼓台〟である。草創期太鼓台に飾られていた蒲団〆と、明治41年(1908)に拵え替えた幅広の蒲団〆である。下麻は、地元の古老2人からの聞き取りから、明治10年(1877)頃に三豊市仁尾町から中古を購入してきたことが分かっている。蒲団〆は、古老たちの若い頃と変わっていないことも証言を得ている。最後の西条みこし(西条市 S・H氏提供)は、明治末期頃の写真である由。以上が主として龍(一部に虎あり)にまつわる変化・発展の予兆である。時代の新しい何れもが、古い時代のものに比べ、帯幅をはみ出ていることが分かる。

       

そしてもう一つの予兆としては、観音寺琴弾八幡宮奉納の奇数号太鼓台の大きな特徴である〝扇咲競(おおぎ・さっきよう)〟と俗に言われている蒲団〆の登場が、龍蒲団〆と同様な予兆ではないかと考えている。この扇咲競の蒲団〆は、中国・清涼山の石橋(しゃっきょう)に因んだ文殊の化身ともされる唐獅子を表し、上下に配された2枚の扇はその口である。その下には咲き誇る牡丹があしらわれ、更に最下部には、蒲団部を縦に大きくはみ出すように長めの糸(これは獅子の毛並みを示す)が垂れている。太鼓台が勇ましく狂い舞えば、獅子の毛並みが大きく波打ち荒々しさが増す、そのような仕掛けである。蒲団〆では、扇の2枚及び牡丹とその葉が、僅かながら帯幅をはみ出すように刺繍されている。(長く垂れた糸部分も、帯の横へではなく縦にはみ出すカタチで、蒲団〆そのものをより大きく見せる仕掛けが感じられる)このような、外にはみ出すデザインの先駆け的存在が扇咲競と呼ばれている蒲団〆ではないかと考えた。

 

上記の扇咲競(実は「石橋」しゃっきょう・さっきょう)は、琴平に工房を構えていた〝松里庵・髙木家〟が編み出した図柄である。そもそも〝石橋物〟と呼ばれる歌舞伎舞踊の演目にある〝扇獅子〟からの着想であったと考えられる。大火のあった天保9年(1838)の時点で、髙木家は幕末の常舞台・金丸座(天保7年創建の我国最古の芝居小屋)の直ぐ近くに居を構えていたことが、先学の研究等から判明している。初代と目される嘉永5年(1852)生まれの髙木定七師は、明治23年(1890)頃、東予や西讃地方の太鼓台隆盛に伴い、海上交通の便の良かった観音寺へ工房拠点を移している。(この工房の移転時期に関しては、明治35年頃とする説もあるが、私自身の確かな聞取り取材等から、明治23年頃で間違いないものと考えている)常設の芝居小屋の直ぐ近く工房を構えていたことも作品に影響したのか、古い松里庵作品には芝居外題の物語を題材にした水引幕などの作品が多いと感じている。

扇咲競の蒲団〆は〝観音寺祭の奇数号太鼓台に限られると考えられていた。上掲の画像は、左から1号(中洲、1枚)・3号(酒or殿町、2枚)・5号(坂本)及び坂出・新浜子供太鼓台である。観音寺では、いつの頃からか判明しないが、不文律的に〝奇数号の太鼓台は扇を用いる〟との約束事が厳格に存在している。それで間違いはないのだが、近年坂出市の新浜地区から、写真の様に、子供太鼓台の蒲団〆として〝扇と龍を並べて対に飾る蒲団〆〟が出てきた。(制作された年代は不明、最後の画像)観音寺の扇咲競と新浜の扇咲競とを見比べて気付くことがある。観音寺では牡丹花の下の渦巻きが、大3個でしかないのに、新浜では小さい渦巻きが数多くある。また、唐獅子の毛並みと目される長く垂れた糸も、新浜では撚った金糸を用いて豪華を演出している。何れの作品も松里庵・髙木家によるものである。私は、豪華で渦巻きの多い坂出・新浜の方が、時代的には古いと考えている。観音寺の方が、新浜よりもデザイン的に簡略され、洗練されていると考えるからである。

それでは、今日的な幅広い蒲団〆へは、⑴いつ頃、⑵どこで、⑶どのような具体的状況の下に変化・発展したのだろうか。

まず⑴いつ頃に蒲団〆が幅広化したのかに関しては、剛性のある蒲団枠が蒲団型太鼓台に採用されたことに尽きるのではないかと考えている。寛政10年(1798)の『摂津名所図会』の大坂の太鼓台などでは、剛性の蒲団枠を採用していても、帯幅内の刺繍でしかない。幕末頃の伊吹島・東部の太鼓台(大坂からの直結の太鼓台)でも、帯幅内の龍刺繍である。片や四国では、明治中期以降に、帯幅をはみ出した龍の刺繍や虎の刺繍があること、髙木定七師の扇咲競の下絵が現存すること、等から、蒲団〆が幅広化した時期は、明治中期頃ではなかったと思う。

⑵どこで、という点に関しては、我田引水的かもしれないが〝刺繍の盛んな四国・琴平から〟ではないかと推測している。琴平の松里庵・髙木家が蒲団〆の幅広化に大きな影響を与えていたのではないかと考えている。特に、扇咲競の蒲団〆は、蒲団〆の幅広化にとっては、先駆的作品であったと考えている。

⑶どのような具体的状況下で蒲団〆の幅広化が為されたのか、については、①剛性の備わった蒲団枠が登場し、太鼓台の美化が飛躍的に進んだこと。その結果、➁各種太鼓台を駆逐し、蒲団型太鼓台が文化圏の代表的存在となったこと。③積み重ねられた蒲団部の四方4面が、最も人目につき易い部位となり、ここが装飾の中心と位置付けられていったこと。蒲団部の堅牢化に伴い、④長く細い4本の蒲団〆から、8面に分断された蒲団〆へと蒲団〆が発展的に変化したこと。⑤面積が広がった蒲団部の外側4面へは、これまでの幅狭い蒲団〆では不釣り合い感は否めない。広がった面積に応じて、装飾の蒲団〆も幅広に発展していく必要に迫られた。等が考えられる。

以上で、長く幅狭い蒲団〆が、堅牢な蒲団枠の登場によって、幅広に8分割された蒲団〆へと発展・変化していった様子が想像できたのではないかと思う。同時に、蒲団〆の〝幅広化〟はそれほど古い時代ではなかったことも、凡そ理解できたのではないでしょうか。

(終)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする