今日は友達の両親と一緒に御飯を食べる機会がありました。
正確にはお母さんと昼ごはんを食べて、お父さんと夜ご飯を一緒に食べたのですが、
昼ごはんを食べながらお母さんと喋っていたら4時間も経っていて初めて他人の親とこんなに喋りました。
そのお母さんは、ある大学の教授さんで色んな人と話す機会があって聞き慣れているので、
喋りやすい雰囲気の人で、
昔から知りあっていたのですが、教授ということや多々の事情から物怖じして喋りたくても喋れない人でした。
というのはお母さんだけに限らず、僕の中で年齢の差は相当重視していて他の年配の人にも気を使っていました。
ですがそれも、これまでの人生経験で駄目だと自覚してそうならないように心がける様になって行っていて、
いざ本人さんと喋り始めたら、こんなに自分の意見を持った人だとは思わなかったと笑顔で褒められました。
それまでの僕の印象は、お母さんが喋ることに一言で返すだけで話が拡がるわけでも自分の意見をいうわけでもないので、
良くわからない人として見られていて何故自分の息子がこんな子と友達をやっているのかわからなかったらしい、
それは色々な理由があって気を使いすぎた結果良かれと思っていてやっていたこと
それが間違っていて自分の意見を言うことが良い時もあることに気づいたことなど、
そういう事を喋っていたら、前文の様に褒められたのでした。
そこの家族とはもう十年来になってくる付き合いで何度か一緒に御飯を食べたり、何処かにでかけたりしていて僕の中では良いと思ってやっていた事が完全に裏目に出ていたことを知りました。
以前から答えは出ていて今日決定づいたのですが、
自分の思ったことは言葉にすべきで、もしそれで相手が不快になるようでも怪訝な顔すれば謝罪をすれば良いし、
その不快さを隠して笑顔の人はそういう人だからそのままにしておけばいい。
もっとも相手の機嫌が悪くなるとわかっていて後で謝れば良いからと言う気持ちではなくて、
機嫌が悪くなることがわかっているならやんわりと気持ちを伝えたりと
ケースバイケースだ。
他にも色々と僕の夢についての相談やアドバイス、色々な話をしてお母さんと別れ、
友達の家に戻ると、
はっさくが沢山なってるから取って、俺は車洗うからという意味不明な事を言われ、
家の裏に生えているはっさくの木に上りはっさくをもぎ取っていました。
はっさくをとるのは少しコツがいるらしく、
本体を掴んで捻りながらヘタの部分を支点にして下にひくと取れると言う、
実際さくさく採れる様になったので、目に付くはっさくをミニゲーム感覚で獲りまくって
ゴミ袋いっぱいにして戻ってくると丁度お父さんが帰ってきて、
父「はっさく採ってくれたのかー、よーけなっとったやろーハハッ!」
※ここのお父さんはよく笑います。
そこですかさず友達が、こいつが飯おごってって言うとんで(注・言ってません)と言うと。
父「じゃあ食べに行こか!」
返答早ッ!!
遅くなると混んでくるから今から行こう!と突然言われたお父さんが一番乗り気で食べに行くことにまりました。
今回行ったのはスシローという回転寿司なのですが、
お父さんはガリが異常に好きな人で、前に来た時もガリを山盛りにしてお寿司を食べるので、
お寿司を食べに来ているのかガリを食べに来ているのか解らない状態になっていました。
そういう事気にしとるときりないでと友達は言いますが、
僕にとっては、そこのお父さんはそういう突拍子もない言動が多々目につきますが結構ツボで、
例えば近くにお父さんがいる状態で、僕と友達が喋っている間ひたすら独り言を大きな声で話していたり、
文字で見るとひくかもしれないですが、本人がすごく楽しそうに喋っているので、
いつまで一人で喋るのか!と心のなかで突っ込んで笑いがこみ上げてくる事がしばしば。
今回もガリと寿司を一対一で食べたり、喋る内容がツボにはまって笑ってました、
そこのお母さんには心の底をさらけ出せる安心感、
そしてお父さんには心の底から笑える魅力(家族内では不評ですが)があって、
それに気づけたのが十年経ってようやく。
自分では気付いていても相手が認知していなければ何も意味もなく、
認知してもらうには言葉にするしかない。
行動は意思表示につながるけど、結局気持ちを伝えるには言葉が必要だ。
正確にはそこに気づけたのが十年という事になるのでしょうか、
それは自分自身の心の変化を実感できたし、ちゃんと良い方に成長しているんだと認識できた、
やっぱり人は他人(ひと)の言動で一喜一憂する生き物で、
他人(ひと)の自分に対する評価が自分だ、
だから自分自信も上辺の言葉でなく、
曇らせない心で感じたことを相手に言うことが相手や自分のためになるんだろうと思う。
正確にはお母さんと昼ごはんを食べて、お父さんと夜ご飯を一緒に食べたのですが、
昼ごはんを食べながらお母さんと喋っていたら4時間も経っていて初めて他人の親とこんなに喋りました。
そのお母さんは、ある大学の教授さんで色んな人と話す機会があって聞き慣れているので、
喋りやすい雰囲気の人で、
昔から知りあっていたのですが、教授ということや多々の事情から物怖じして喋りたくても喋れない人でした。
というのはお母さんだけに限らず、僕の中で年齢の差は相当重視していて他の年配の人にも気を使っていました。
ですがそれも、これまでの人生経験で駄目だと自覚してそうならないように心がける様になって行っていて、
いざ本人さんと喋り始めたら、こんなに自分の意見を持った人だとは思わなかったと笑顔で褒められました。
それまでの僕の印象は、お母さんが喋ることに一言で返すだけで話が拡がるわけでも自分の意見をいうわけでもないので、
良くわからない人として見られていて何故自分の息子がこんな子と友達をやっているのかわからなかったらしい、
それは色々な理由があって気を使いすぎた結果良かれと思っていてやっていたこと
それが間違っていて自分の意見を言うことが良い時もあることに気づいたことなど、
そういう事を喋っていたら、前文の様に褒められたのでした。
そこの家族とはもう十年来になってくる付き合いで何度か一緒に御飯を食べたり、何処かにでかけたりしていて僕の中では良いと思ってやっていた事が完全に裏目に出ていたことを知りました。
以前から答えは出ていて今日決定づいたのですが、
自分の思ったことは言葉にすべきで、もしそれで相手が不快になるようでも怪訝な顔すれば謝罪をすれば良いし、
その不快さを隠して笑顔の人はそういう人だからそのままにしておけばいい。
もっとも相手の機嫌が悪くなるとわかっていて後で謝れば良いからと言う気持ちではなくて、
機嫌が悪くなることがわかっているならやんわりと気持ちを伝えたりと
ケースバイケースだ。
他にも色々と僕の夢についての相談やアドバイス、色々な話をしてお母さんと別れ、
友達の家に戻ると、
はっさくが沢山なってるから取って、俺は車洗うからという意味不明な事を言われ、
家の裏に生えているはっさくの木に上りはっさくをもぎ取っていました。
はっさくをとるのは少しコツがいるらしく、
本体を掴んで捻りながらヘタの部分を支点にして下にひくと取れると言う、
実際さくさく採れる様になったので、目に付くはっさくをミニゲーム感覚で獲りまくって
ゴミ袋いっぱいにして戻ってくると丁度お父さんが帰ってきて、
父「はっさく採ってくれたのかー、よーけなっとったやろーハハッ!」
※ここのお父さんはよく笑います。
そこですかさず友達が、こいつが飯おごってって言うとんで(注・言ってません)と言うと。
父「じゃあ食べに行こか!」
返答早ッ!!
遅くなると混んでくるから今から行こう!と突然言われたお父さんが一番乗り気で食べに行くことにまりました。
今回行ったのはスシローという回転寿司なのですが、
お父さんはガリが異常に好きな人で、前に来た時もガリを山盛りにしてお寿司を食べるので、
お寿司を食べに来ているのかガリを食べに来ているのか解らない状態になっていました。
そういう事気にしとるときりないでと友達は言いますが、
僕にとっては、そこのお父さんはそういう突拍子もない言動が多々目につきますが結構ツボで、
例えば近くにお父さんがいる状態で、僕と友達が喋っている間ひたすら独り言を大きな声で話していたり、
文字で見るとひくかもしれないですが、本人がすごく楽しそうに喋っているので、
いつまで一人で喋るのか!と心のなかで突っ込んで笑いがこみ上げてくる事がしばしば。
今回もガリと寿司を一対一で食べたり、喋る内容がツボにはまって笑ってました、
そこのお母さんには心の底をさらけ出せる安心感、
そしてお父さんには心の底から笑える魅力(家族内では不評ですが)があって、
それに気づけたのが十年経ってようやく。
自分では気付いていても相手が認知していなければ何も意味もなく、
認知してもらうには言葉にするしかない。
行動は意思表示につながるけど、結局気持ちを伝えるには言葉が必要だ。
正確にはそこに気づけたのが十年という事になるのでしょうか、
それは自分自身の心の変化を実感できたし、ちゃんと良い方に成長しているんだと認識できた、
やっぱり人は他人(ひと)の言動で一喜一憂する生き物で、
他人(ひと)の自分に対する評価が自分だ、
だから自分自信も上辺の言葉でなく、
曇らせない心で感じたことを相手に言うことが相手や自分のためになるんだろうと思う。
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