その昔、私が若かったころの話なんだけどね―。そんな問わず語りの映画のワンシーンが始まりそうな、やわらかく落ち着いた空間だった。
福富町のはずれにある洋食屋さんを訪ねた。いま、知り合いの漫画家の卵さんや同僚隊員とひっそり、かつ猛ダッシュで制作中の「福富ガイドマップ」の取材のためだ。店の目印は、道沿いに立つ小さな小さな看板だけ。「ほんとに、やってるのかな」。半信半疑で駐車場に車を止めると、木々に囲まれたこじんまりとしたお店があった。
扉を開けると、うっすらとドミグラスソースの香り。窓ガラスの向こうに、野趣あふれる庭が広がっている。テーブルには、食べ終えたばかりな様子の焼き皿が二つ。「ごっ、ごめんくださぁぁい」。夏風邪に喉をやられている隊員が声を絞り出してみると、厨房から「はぁい」と女性の上品な声がした。
声にふさわしい上品な身のこなしの女性は、店のオーナーであり、シェフであり、ウエイトレスだ。訪問の趣旨を告げると、「まあ、お座りになって話しませんか」と洗い物の手を休め、大きな甘いブドウを出してくれた。
国内外を目まぐるしく引っ越しながら生きてきたこと。偶然が重なり、60歳を過ぎてから店を始めたこと。ホールだけを担当していたが、見様見真似でシェフにトライしたこと。好きで通ってくれる人たちが、お店の手伝いや飾りつけをしてくれること。有名な某音楽家が毎年、店でコンサートをしてくれるようになったこと。店の行く末で考えていること…。ひとつひとつのエピソードを愛おしむように、ゆっくりと話してくれた。
ジブリアニメ「魔女の宅急便」に出てくる、孫にニシンのパイを焼くおばあさん。貧しく楽しいイタリアでの青春時代を振り返る作家・須賀敦子さん。そんなイメージが勝手に膨らむ。
とにかく、時間も世間も立ち入れないような、ほっとする空間だった。ここ数日、体調を崩した上に気ぜわしい時間が続いていたので、いっそう落ち着くひとときだったな。今度は、ゆっくり食事にこよう。