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退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

先生との出会い(8)― ライフガード(3) ―(愚か者の回想四)

2020年10月03日 16時56分28秒 | 日記

先生との出会い(8)― ライフガード(3) ―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 ライフガードは全員笛を2個ずつ持っている。一つはホイッスル、他の一つは単管(笛)。溺者を発見した者はこの単管を強く吹いて他のライフガードに知らせる。単管を強く吹くと鋭く高い音が出る。否応なしに第一発見者の緊迫感が伝わる。

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 年末年始と夏前の大掃除の時期を除きプールは一年中公開しているので、冬場の勤務は8人、夏場は16人で業務を回していた。

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 タワーが溺者を発見すると、まず単管を吹く。自分に近ければタワーを降りてみずから救助に向かう。

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 単管の音を聞いて飛び出したものは先ずタワーを見る。タワーに人がいなければ溺者はそのタワー近くなので、最短距離を通ってそのタワーまで全力疾走する。先頭を走るものは空いたタワーに上り監視体制を維持する。

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 両方のタワーに人がいるときは、溺者はタワーとは反対側に近いということになるので飛び出したレストのライフガードたちは先を走るコントロールの一人の後を追いダッシュする。

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 このとき一名はコントロールカウンターの近くに置いてある担架にとどまる。万一のときは担架を持って現場へ走る。

 この動きのすべてを指示するのがその時マイクを持っているコントロール担当者ということになる。

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 コントロールはダイビングプールと競泳用プールの間、観覧席の下にある。

 溺者発生の位置を確認しやすいようにあらかじめ50mプールを四つに区切りダイビングプール側のタワーを一番、反対側を二番と呼んだ。そしてそれぞれタワー側を窓側またはベランダ側と呼び、タワーの向側を観覧席側と呼んだ。

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 単管が鳴るとコントロールはこの組み合わせでライフガードが進むべき方向を示した。

 「一番の下、ベランダ側」、「二番の前、観覧席側」という具合である。

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 タワーが救助に向かった場合、残ったタワーのものが溺者の位置をメガホンで指し示す。

 控室から出てきた他のライフガードに進むべき方向を示しながら、その姿勢は他のライフガードが現場に到着するまで崩さない。

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 タワーにいるライフガードが溺者を発見し、みずから救助に行くときでも、ライフガードはプール側に設置された階段を降りてから水に入ることになっていた。タワーから飛び込むのは非常に危険なので厳禁である。しかし、慣れないうちは階段を踏み外したり、バランスを崩したりして階段の途中から落ちることもあった。

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 第一発見者または救助者が溺者に到着するまでに要する時間は数十秒から最長1分。単管が鳴ってレストやパトロールが現場に着くまでの時間も1分程度だった。これを維持するため、毎月一回、公開終了後訓練をした。アルバイトなのにみな熱心だった。

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 あってはならないことだが、溺者発生時のライフガードの動きはみごとであった。とりわけ夏場は勤務者が多いので、単管が鳴ると同時にコントロールカウンターや控室から次々と飛び出してくるライフガード達の姿にはファンができるほど精悍さがあった。

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 このプールには常連さんも多く、単管が鳴りライフガードが飛び出して疾走するとプールサイドの人垣が割れるように道ができるときもあった。

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 ちなみに、そのこととは無関係だが入場者の女性と仲良くなることは厳禁だった。

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 一人前のライフガードとして勤務に就けるには、さらに場内放送の内容を覚えなければならない。そして、この場内放送にはそれぞれブロックサインが付いていた。

 タワーが、場内放送が必要だと判断したときはタワーからコントロールへこのブロックサインで放送を要求する。

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 日常的に使うサインと放送内容は限定的だが、勤務に就くには全部覚えなければならない。

 「シャワーをお浴びください。プールに入る前には必ず頭の上から十分にシャワーをお浴びください。」という放送内容を求めるときは片手を頭の上にあげ指でシャワーの形を示すサインを使う。

 「走り飛込みはおやめください。プールサイドを走って飛び込むと大変危険です。走り飛込みはおやめください。」という放送内容を求めるときは片手を監視台のアームレストの上でバウンドさせ走り飛込みの形を示す。そのようなものがたくさんあった。

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 また、決まったサインとは別に「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」を表すサインもありこれも覚えなければならなかった。夏場、ベビープールを担当するものは手だけを使った水鉄砲ができないとダメだ、とある先輩に言われ一所懸命練習した。だが、ウソだった。今でもできるので風呂に入ったとき遊んでいる。

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 私が採用された翌年、新たな応募者がいた。後輩ができると思った。

 しかし、職員が仕事内容の説明をし、放送内容を含むプールの概要を記載した冊子を渡すと、翌日これを返しに来た。私が入ったとき、筋肉質の先輩が、「続くといいね。頑張ってね。」と言った理由が分かるような気がした。

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 このような職場環境の中でようやく一人前のライフガードとして一人でタワーに上る日が来た。

 緊張していたが嬉しかった。泳げないために中学校の臨海学校を毎年欠席していた虚弱体質のぜんそく爺さんがライフガードになった。1972年の初夏だった。

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 ひとつ強く記憶に残ることがあった。当時チーフだったOさんがタワーのときホイッスルが鋭く鳴りコントロールから「レスト一名!」の声がかかった。常に一番を目指していた私は真っ先にプールサイドに走り出た。

 チーフは二番タワーにいる。タワーの正面に立つと、「そこにいる女性とまわりの男性をコントロールへ連れて行ってください。」との指示があった。一見二人連れかと思ったが女性の周辺には知人らしい男性が4~5名いた。

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 ご同行をお願いすると、「なんだよ、うるせえなぁ~。」とかなり攻撃的であった。

(つづく)


先生との出会い(7)― ライフガード(2) ―(愚か者の回想四)

2020年10月03日 14時23分50秒 | 日記

先生との出会い(7)― ライフガード(2) ―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 その新人さんは某大学の現役水泳部員で救助員の有資格者であった。自信満々で練習に加わって来た。もちろん、競泳の練習では私は全くかなわない。彼は選手なのだから。

 救助法の訓練に移った。何を思ったか先輩が「H、ヤツの面倒を見てやれ。」と私に言った。「了解しました。」と返事をしてダイビングプールへ移動した。

 「救助法は知ってるよね。」

 「はい、大丈夫です。」自信満々に答えた。

 「じゃあ~、一回やってみようか。」

 「はい。了解です。」

 そういうことで私が溺者役となって訓練を始めた。「H、ヤツの面倒を見てやれ。」と私に言った先輩はプールサイドに立って見ていた。これは万一に備えた監視でもある。

 溺れる前にもう一度確認した。「運べるよね。」と。

 「大丈夫です。」と答えてくれた。

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 私は溺れた。彼が救助に来てくれた。教科書通りである。多少上下はするもののスイスイ運ばれるままに体重をあずけ天井を眺めていた。楽ちん。

 「上手だねぇ~。できるねぇ~。」と私が言う。

 「H、ダメだよ甘いことしてちゃ。しがみつけ。おまえ、浮いてんじゃないの。」とプールサイドの先輩から声が飛んだ。

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 泳げる人は何もしなくても水面で浮いてしまう。したがって、彼が運んだのは水面に浮いている私を引っ張って来ただけだという評価である。

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「君、離脱法、知ってる。」と尋ねた。

「はい、大丈夫です。」と元気な声が返って来た。  

「じゃぁ~、しがみつくよ。」と言うと「了解です。」と再び元気な声が返って来た。

「立体、巻き足、大丈夫だよね。」と訊くと。再び「大丈夫です。」との答えが返ってきた。彼としては万全なのだろう。体格も貧弱な私より大きく、太股も太かった。

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 「溺れるよ~。」と言って溺れた。先輩が、「救助!」と声をかけた。彼は勢いよく私に向かって来た。そのまま私にぶつかりそうになったので私は首にしがみ付いた。一瞬二人とも沈んだ。教科書通りの離脱法を行って無事態勢を整え水面を運び始めた。

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「ダメだよH、そんな優しいことしたら。いつもの練習みたいにやってみろ!」と先輩の声が飛んだ。 彼は少し息を切らしていた。

「今日はじめてですよ。」と私が言うと、「大丈夫だ!」と「大丈夫です。」が同時に聞こえた。

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「本当に大丈夫?」と訊くと「大丈夫です。」と彼は答えた。少し火が付いたみたいだった。明らかに貧弱でやせた私を扱うのに少し手間取ったからだろうか。このとき私の体重は53kgだった。

「じゃぁ~、溺れるよ~。」と言って再度私は溺れた。

 彼が近づいてきた。先輩もいくらか前よりは真剣に見ている。「仕方がない。かわいそうだがやってみるか。」と決めて目前に迫った彼にしがみ付いた。私の方が一瞬早かったので私の顔を押しのけられない。一回目のように少し沈みかけたので足を絡めた。彼の巻き足は十分ではなかった。ふわふわ水を踏んでいる両足に私の足を絡めた。もはや彼には浮いている手段が無かった。そのまま水底5mまで沈んだ。

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 彼の口から泡が出たので手と足を離した。彼は一気に浮上し水面でフウフウしていた。手で浮きをとっていた。

 「大丈夫?」と訊くと「はい、大丈夫です。」と息苦しそうに答えた。大丈夫ではなかったようだ。少し溺れていた。

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「ああいうのは一度溺れた方がいいんだ。」と先輩は私と二人になった時に言った。先輩は彼の自信が危険だと判断した。「一度(鼻を)折っておく方が良いんだ。お前のこともなめてたからな。」

 そういうことか。

 その後、彼は非常に熱心に練習していた。とりわけ巻き足の練習には力がこもっていた。

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 水底に沈んだとき、彼も苦しかっただろう。だが、これはいま時のイジメやシゴキではない。溺者の苦しさを知り自己の安全を確保する訓練でもあった。

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 また、救助法の有資格者には得てして彼のような自信に満ちた人がいる。自信を持つことは良い。だが、それが油断を生み自分が危険に曝されることは避けなければならない。

 先輩たちの腹にあるのは、表現は悪いが、馴れ合いに近い状況で会得した救助法はこのプールでは役に立たないということのようであった。

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 私は中学生の時、学校のプールで溺れたことがある。背が小さくかろうじて足のつくプールだったが水底の排水口に引き寄せられた。わずかに循環する流れに吸い込まれた。何もできなかった。怖かった。たまたま気付いてくれた先生が助けてくれた。

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 その自分が今、溺者を助ける訓練をしている。不思議な感覚だった。水底まで引きずり込まれても相手から離脱し、さらに相手を水面まで引き上げなければならない。

 特殊な技術だが「どこぞの救助法普及組織では教えていない。」と誇らしげに先輩は言った。

 もっとも、自然の海や川では通用しない。いわんや着衣泳の領域に至れば話は全く変わる。その点は自覚していたはずだ。

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 激しくも楽しい訓練期間は思いがけず早い時期に完了し、正勤務につける日が来た。嬉しかった。

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 ライフガードの業務は徹底したチームワークだった。二人一組のバディーで、コントロール、タワー、休憩、レストを回して行く。混雑時にはこれにパトロールが加わる。30分交替だ。

 コントロールはプールサイドにあるコントロールカウンターにバディーで入る。コントロールカウンターには小型の五輪がぶら下がっている。

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 コントロールの主たる業務は場内放送と定時パトロールだ。10分間隔で、交替でパトロールにも出る。場内放送では休憩時間や場内規則の案内をする。コントロールでは貴重品の預かりもする。タワーから指示があるとすぐにプールサイドに出て対応する。レコード室があるので場内に流す音楽も担当する。一度、軍艦マーチと君が代を流して上司に叱られた。

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 タワーは監視業務全体の目だ。50メールを半分に区切り、半分に区切った部分の窓側サイドの中央に高さ5メール程の頑丈な木製の監視台が立っている。主たる業務は入場者の誘導だ。水深を知らずに深いところに入ろうとする人に「そこは深いですよ~。」とメガホンで声をかける。「泳げま~す。」と返事をする人もいる。入ったとたんに沈みパトロールを呼んだことがある。

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 シャワーを浴びていない人にはシャワーを浴びるよう促す。髪の毛に付いた整髪料で水質が汚染されることを防ぐ意味もあるが、主たる目的は水慣れだ。シャワーを浴びないで入場する人の中に溺れる人がいる割合は高い。

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 このプールで普通の人が立てるのはスタート台から5メール付近までだ。そのラインを超えると急に深くなる。したがって、「スタート台から5メール以内の所からお入りください。」と声をかける。ムッとする人もいる。

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 このプールには入場口側のサイドに水中棚という厄介なものがあった。棚と言ってもプール本体に作り付けのコンクリートのせり出しで50cm程しかない。ここに立つと大人のヘソのあたりが水面となる。その為、その高さを深さだと思ってプールに入り溺れる人がいる。

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 溺者の判定は難しい。ドラマや映画の溺者をイメージしたら見落とす。溺れている人の典型は水面に手しか出ていない。それもないときもある。バチャバチャもがいて「助けて~」と言える人は溺れてはいない。

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 しかし、ぜんぜん泳げないわけではない人が水深を知らずに泳ぎだし、立とうと思ったら足がつかなかったという場合は難しい。なんとか泳ごうと努力するので対応が難しい。

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 こういうときはパトロールを呼ぶ。呼ばれて最初に出動するのはコントロール担当者の内の一名だ。それで間に合わないときはレストが出る。レストは文字通り待機なので、この間は控室にいなければならない。タワーを降りたあとの休憩時間に飯を食ったり泳いだり横になったり休息をとる。

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 ここで、溺者発生時の動きを再現しておこう。(つづく)

 

 


先生との出会い(6)― ライフガード(1) ―(愚か者の回想四)

2020年10月03日 13時39分52秒 | 日記

先生との出会い(6)― ライフガードへの道 ―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 3年生の時、学校にプールができた。それまであった釣り堀のような水桶が立派な25mプールに変身した。

 私はこの時まで泳げなかった。泳げなかったが水泳が得意な仲間と水泳部をつくった。

 その年の夏休みは毎日登校し朝8時30分から夜7時頃まで泳いでいた。全く泳げなかったので1年生に教わった。初めて夏休みを楽しいと思った。

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 一緒に活動する仲間もできた。習った泳法は平泳ぎ。試みにタイムを取り始めると泳ぐたびにタイムが上がった。当たり前と言えば当たり前だ。泳げなかったのだから。

 F.S.先生も夏休みの当番のときは泳ぎに来ていた。

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 水底に寝ころび空を見上げるとキレイだった。夕暮れ時はとりわけ太陽が水面でキラキラして絶景だった。

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 二学期になり校内水泳大会が開催された。なぜか予選落ちしなかった。その後も勝ち進んだ。決勝の時、準決勝を一位で通過した生徒が帰宅してしまったため残った生徒だけで決勝を行った。50mの平泳ぎで一等になった。生まれて初めてだった。これまでの運動会では常に三等だった。

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 「日本中のどの大学を受けても今は入れない。」と進路相談をしたとき、F.S.先生がおっしゃった。もちろん、自分でもその通りだと納得していた。来春合格する見込みが全く無いまま浪人生活に突入した。このときの両親の気持ちを今、聴いてみたい。

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 卒業式が終わり、家でぷらぷらしていると高校時代の友人からアルバイトの誘いがあった。プールの監視員である。

 「日本赤十字社救急法救急員又は水上安全法救助員の有資格者」であることが条件だった。この友人も私もたまたま高校在学中に救急法救急員の講習を受け適任証を交付されていた。

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 そのプールは都内にあった。1964年の東京オリンピックで水球の会場となったプールである。50mの競泳用プールと飛込みプールがあった。いずれも公式である。競泳用プールの水深は最深2.4m。水球で使用したときは外国人選手の身長が高いので、プールサイドの排水口をふさぎ2.6mまで水面を上げて使用したそうだ。一般公開時は少し水位を下げていた。だが、泳げない人は当然、溺れるプールだった。

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 現在は少なくなったようだが、当時でも一般公開しているプールで水深が2メールを超えるものは多くは無かった。監視員はライフガードと呼ばれた。これが正式な呼び名だとはその後しばらくしてから知った。

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 今でもLife Guardと印刷されたTシャツを着て颯爽と歩く若者を夏場のプールでは見かける。だが、その仕事の多くは監視の他、水質検査やチケットのチギリ、場内や更衣室の清掃であることが多い。

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 しかし、当時のこのプールでは、監視能力もさることながら、万一のときに備え、溺者を水面で運ぶ溺者救助法の能力が無ければ正規の勤務者にはなれなかった。

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 控室に通された。まだ勤務時間には間があるので勤務者はいなかった。一通り説明を受けた後、資料に目を通しながら時間が来るのを待った。プール特有の匂いが私は好きだった。

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 しばらくすると三々五々勤務者が控室に入って来た。

 「新人です。よろしくお願いします。」と頭を下げた。

 「よろしくね。」と軽く答えてくれた。

 服を着ていると分らないが水着に着替えるとその体の逞しさに驚いた。顔からは想像できない筋肉質だった。

 その後、数人が続けて入って来た。

 「新人です。よろしくお願いします。」と再び頭を下げた。

 「よろしくね。」と再び軽く答えてくれた。

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 私も、「これ履いて。」と手渡された水着に着替えた。ユニフォームは赤のトランクス型パンツと赤い水泳帽だ。赤いジャンパーもあったがほとんどの人は着ていなかった。

 「今日は私について。」とサブチーフのK先輩が言った。横を通り過ぎた筋肉質の先輩が、「続くといいね。頑張ってね。」と声を掛けてくれた。その意味は練習が始まってから分かった。私の身体があまりにも貧弱だったからだと思う。

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 見習い勤務が始まった。はじめはプール自体や周辺設備を覚えた。シャワー室の奥には小さな風呂もあった。以前ここで倒れていた人がいたと聞いて驚いた。温度差が身体に影響するらしい。ここまでがパトロールの領域だ。

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 公開前だったので監視台にも上った。下から眺めるよりはるかに高い。向かい側の人が小さく見えるほどだ。50mの競泳用プールの横幅は20mだった。この距離で話もできなければならないとも言われた。声を鍛えよう。しかし、公開中に会話をしたことは無かった。

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 泳法訓練も始まった。溺者救助法の訓練が厳しかった。しかし、楽しかった。暫し受験を忘れ練習に打ち込んだ。

 一年前まで泳げなかった男が救助員に挑戦している。見習い期間は2カ月に及んだ。

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 現在では、こうした見習い期間でも給料が支給されるらしい。だが、当時は無給だった。「金が欲しけりゃ早く一人前になれ。」という世界だった。嫌いではない世界だ。

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 ライフガードはほぼ全員大学生だった。浪人生も私の他に一人いた。彼は水泳の元国体選手だ。

 他にも実力名門校の水球選手や体育専門大学の水泳部の選手が多かった。

 若い連中を束ねる職員が二人いた。そのうちの一人は日本で最初のライフガードだということだった。

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 練習では普通の泳法は当然のことながら、これとは別に溺者を運ぶ「巻き足」という立体泳法の練習が行われた。水球選手やシンクロナイズドスイミングの選手が得意とする泳法だ。普通の人にはなじみが薄いだろう。これを徹底的に叩き込まれた。

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 さらに、実際に水面で人を運ぶ練習をした。これはとりわけハードだった。なぜならば、溺者は苦しいので人が近づくとその人にしがみつき大暴れする。私も正勤務に就いた後、実際の溺者を運んだことがあるがその力は凄まじい。死にもの狂いとはよく言ったものだ。そのくらい強い力でしがみついてくる。女性でも子供でもその力は強い。おそらく訓練を受けていない人が溺者を素手で助けようとすれば一緒に溺れるに違いない。

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 溺者救助法の練習は溺者役の先輩を新人や後輩が助けるというやり方で行われた。

 始めは、ただ運ぶだけだ。ただ運ぶだけと言っても、技術が無ければ、結果的に溺者役の先輩にしがみついてしまうことになる。普通の訓練では、人を水面で運べるようになるまでに数か月かかると言われていた。

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 しかし、ここではそんなのんびりしたことはしていなかった。先輩はとにかく運べと励ましてくれた。励ましてくれると同時に負荷もかけてくれた。本当に溺れた人を何度も運んだ経験のある先輩たちの動きには説得力があった。

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 「なんたらという人たちはあれこれ救助法について語るがあれで本当に溺者を運べるのか。」と言う先輩もいた。実際この先輩の実力には目を見張るものがあった。

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 普通に運べるようになると先輩は、水中ダイビングで身体に巻くウエットベルトを付けた。ウエットを数個つけた状態で両手を上げて浮いている。その巻き足の強さに憧れた。否、憧れている場合ではない。その先輩を運ぶのである。重い。足が痺れてくる。しかし、練習はこの段階では終わらなかった。

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 水球を水中の格闘技と呼ぶらしいが、ライフガードの訓練は文字通り水中での格闘だった。ウエットを数個付けてもなお水中を自由に泳ぎ回る人が、今度は絡みついてくるのである。これを振りほどき背後に回り込む。水面にいて溺者の視界と手の届く距離に入れば必ずしがみつかれる。そこで、溺者役の先輩に接近し、抱き着かれそうになる直前に水中に潜り背後に回る。このタイミングを間違い水底まで引きずり込まれたことも何度かあった。

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 後日、立場がかわり、私が指導する側になったとき、同じようなことが起きた。(つづく)