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退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

先生との出会い(13)―入試―(愚か者の回想四)

2020年10月21日 18時34分06秒 | 日記

 入試の時期が来た。さて、どうしたものか。内申書をもらいに高校へ行った。

 現役のとき、S.F.先生は「どこを受けても受かるところはないから好きに受けろ。」とおっしゃっていた。だが今度はそうはおっしゃらなかった。

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 思い出受験は金の無駄なので、本当に入りたい学部に絞った。とはいえ、結局「潰しが効くから」という理由で法学部を受験することにした。どうでも良いことだが、この頃、主だった大学の名前だけは知っていたが、それがどこにあるのかは知らなかった。

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 母は私が受験したいというと、その数だけ受験料を準備してくれた。今思えば、貧乏な我が家の家計で、落ちるのが決まっている大学の受験料に金を出すのは合理性に欠ける。しかし、母は何も言わず出してくれた。記憶では一校3,000円だったと思う。そして、この年も全滅した。

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 さてどうする。しかし、大学には行きたかった。普通の勉強がしたかった。3年間、鉄を削っていた。それとは違った空気を吸いたかった。S.F.先生の言葉も頭から離れなかった。このままではウエスのように捨てられる。そういう人生が待っている。

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 昼間部の発表があった後、一部の夜間部のある大学で募集があった。大きな決意をしたわけではない。しかし、受験手続をした。昼間部で全敗した大学だ。

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 「また落ちるのかな。どうせダメだろうな。」と思いながら試験を受けた。試験会場は図書館だった。「こんな図書館で勉強できたらいいな。」と思いながら答案用紙に向かった。

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 受験科目は英語、国語、社会。今度も空欄が多い解答用紙となった。しかし、国語と社会では少しだけ空欄を埋めることができた。去年に比べると英語で少しだけ空欄が減っていた。

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 一週間ほど経っただろうか、母が「封書が来ているわよぉ~。」と起こしてくれた。

 これまで他大学から来た不合格通知はすべてハガキだった。今日は封書だ。裏には中央大学入試事務室と書いてある。胸が高鳴るとはこういう状態をいうのだろう。

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 「あなたは本学法学部法律学科(夜間部)の昭和48年度の入学試験に合格したので・・・」

 嬉しかった。嬉しかった。嬉しかった。

 母は「良かったわね。」と軽く返事をして家事を続けていた。S.F.先生に電話をした。「エライ!エライゾ、H!」と褒めてくれた。

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 夕方、改めて合格発表を見に行った。339番。これが私の受験番号だ。欠席したのかもしれないが338と340は無かった。

 帰り道、周囲の景色が違って見えた。中には入れないのだが大学の建物のまわりを数回歩いた。正門の前にも立ってみた。来年はこの大学で勉強ができる。あの有名な、名前しか知らなかった中央大学で勉強ができる。昼間だろうが夜だろうが私には全く関係なかった。嬉しかった。そして、この合格が私の人生を劇的に変えることとなった。(つづく)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(12)― 芸は人を助ける ―(愚か者の回想四)

2020年10月19日 16時52分14秒 | 日記

 その家のプールには飛び板もあった。小さいプールなのに足がつくところと水深が3m以上ある部分とがあった。その境目には目に見える境界は無かった。怖い。

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 仲間の女性の一人が、ふざけて年配の男性をプールに突き落とした。

 普通ならば笑って終わる悪ふざけだったが彼は泳げなかった。

 落ちた場所は深いところだ。

 明らかにパニックを起こし溺れている。

 すぐに私も水に入り支えた。

 彼は彼なりに文字通り必死に無我夢中に「泳いだ」。

 誰が見ても泳いでいるようには見えなかったが。

 そして、まもなく岸にたどり着いた。

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 ホストファミリーのママがこの出来事を何度も何度も他のママたちに話したのでママやパパたちの私に対する接し方が変わった。

 なぜか仲間たちの私に向けられる目も変わったような気がした。

 ちなみに、米国ではライフガードはプロでありその社会的地位は高いということを後日知った。今はどうだか分からない。

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 ホストファミリーとスーパーマーケットへ買い物に行った。普通の町のスーパーだが、ライフル銃や散弾銃が日本のモデルガンのようにショウケースに並べられていた。「Sale」の札もついていた。もちろん本物である。「アメリカだなぁ~。」と実感したが、日々、ガラガラヘビに注意しなければならない土地柄を思えば当然と言えば当然だ。

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 このスーパーはオリエンタルフードの専門店なので私は店員と間違われた。私を店員と誤解して話しかけてきた男性の冷たい目が今も忘れない。ここは南部だ。私はカラード(有色人種)。取りわけ東洋人は南部では危ない。改めてアメリカを感じた。

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 フィーニックスカレッジの全く分からない講義を聴いた後は教会に集まった。このとき初めて「ワンウェイジーザス」を知った。掲げられている旗には、人差し指だけを立てた手の絵が描かれている。ジーザスだけが信仰の対象なのだ。なかなか難しい。

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 観光バスでグランドキャニオンへも行った。これが川(渓谷)だと教わりスケールの大きさに度肝を抜かれた。

 お土産屋でボロータイを買った。元はポピーインデアンが狩猟につかった道具だったそうだ。帰国後だいぶたってから日本でも見かけるようになった。

 「もう二度と来ないと思うから目に景色を焼き付けて置こう。」と言った仲間の言葉がなぜか記憶に残っている。

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 約一週間のフィーニックス滞在が終った。

 ホストファミリーのママが泣いていた。

 私も涙が出て来た。

 言葉によるコミュニケーションはほとんどできなかった。

 しかし、ホストファミリーのメンバー全員と気持ちはつながっていた。

 言葉とは一体何なのかと不思議に感じた。

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 フィーニックスを出た後はただの観光だった。NYではデッキシューズに白の裾広パンツ、頭は坊主で市内を一人でうろうろしていた。エンパイアステートビルディングにも上った。ホテルに戻ってから、再び「あの格好はヤバかったな」と気付いた。まぁ~、東洋人を相手にする好き者はいないとは思うが、ガラガラヘビがいる国だから何が起きても不思議ではない。

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 夜、和服を来た女性たちがメトロポリタンオペラハウスへ「マス」というミュージカルを見に行った。何故か誘われたので同行した。

 もちろん何が演じられているのか全く分からない。それなのに感動した。芸術にも言葉はいらないのか。

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 帰り道が分からなかった。時刻は20時を過ぎている。私を含めて4人なのでタクシーに乗ればいいのだろう。だが、歩きたがる人がいた。「やめた方が良いと思います。」と提案し、タクシーに乗った。

 「道に迷ったらタクシーに乗りホテルのマッチを見せれば帰れる。」と例の研修で習った。女性たちの一人がドライバーへマッチを示した。研修会でも上手な英語で自己紹介をしていた女性である。「O.K.」との返事が帰って来たというので全員で乗り込んだ。

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 しかし、いくら走っても同じ景色がめぐって来る。着かない。

 やむを得ず、今度は私の判断で全員下車した。元いた場所に戻っていた。私がそのドライバーに確認すると字が読めなかった。同じブロックを数回くるくる走っていた。

 「そのホテルならあっちだ。15分歩けば着く。」と言う。指さした遥か向こうに真っ黒な塊が見えた。

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 これは違う。そう思って、別のタクシーを拾い言葉で確認した。住所を告げた。ドライバーの目を見てゆっくり発音した。「Do you understand me?」と念を押すと、「Yes,sir.」との答えが返ってきた。大丈夫だと判断し全員で乗り込んだ。10分もかからずに無事着いた。

 その前のタクシーのドライバーが指さした先はNYのセントラルパークだった。

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 ナイヤガラ瀑布には度肝を抜かれた。下からも眺めたが壮観だった。そしてサンフランシスコまで戻って来た。空港のトイレに「男」、「女」の文字があったのには驚いた。

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 この頃になると言葉にあまり不自由を感じなくなっていた。不思議なものだ。そして、書き言葉と話し言葉とが同じ英語でも全く次元の異なるものだと感じた。あのネイティヴのドライバーは話ができても文字が読めなかった。

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 国は、近年、英語のspeakingとlisteningの教育に重点を置いている。小学校にまで学ぶ時期を下げ、入試にまで取り込んでいる。もちろん、言葉に関する4つの能力を身に付けていれば金儲けと友達作りには便利かもしれない。

 しかし、言葉は脳を形成するのに大きな役割を果たしている。いわゆる母国語脳を高めることは論理的思考力を高めると言われている。

 現実に、米合衆国最高裁判所は陪審員候補者からバイリンガーを排除してもそれは不合理な差別には当たらないとの見解を示したことがある。

 被告人が有罪か無罪かを判断する陪審員には高度な論理的思考力(及び推論力)が求められる。バイリンガルにはその能力が無いとされたのである。プレスの中にこの判断を批判するものは無かった。

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 今、日本では、日本語脳の形成過程にある若年者に英語のlisteningとspeakingの能力を高める教育を進めている。

 米合衆国最高裁判所の理屈に従えば、日本式の英語教育が進むと将来の日本人の論理的思考力は低下することになる。

 とりわけ児童や幼児期にある子供にこのやり方の英語教育をすると一言語思考力が低下し論理的思考力が極度に低下する危険がありそうだ。

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 ちなみに、当時、日本人の中には英語力について「読めるが聴くのや話すのが苦手だ」と言う人がいた。そのように言う人に書いたものを見せたことがある。分からなかった。

 ただの悪戯だ。この頃から私は外国語に限らず言語や言葉に関心を持つようになった。これは後に思いがけない結果をもたらすことになる。

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 私にとって珍道中だった米国への旅は無事終了した。帰国して自宅に戻ったとき畳の香りを強く感じたことを覚えている。

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 帰国したとき、空港にチーフのO先輩とサブチーフのT先輩が迎えに来てくれた。驚いた。嬉しかった。T先輩は笑わない人だと思っていたが笑顔だった。

 数日後、プールに復帰した。皆、歓迎してくれた。そして以前と同じように接してくれた。日本ではほとんど見かけなかったマクドナルドハンバーガーの話とhamburgerの発音がうけた。

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 すでに夏は終わり秋が近づいていた。遊びまくった1972年。そろそろ来年の入試の準備をしなければならない。

 そんなわけで10月に入試の準備ということでプールを休むことにした。

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 プールを休んで自宅にいてもとくに受験勉強をするということも無かった。

 理由を思い出せないが真空管アンプをつくり始めた。それも間もなく完成し、やることが無くなり、再びラジオ講座を聴き始めた。勉強らしい勉強もせず一年を過ごしたのだからラジオ講座を聴いても分かるようにはなっていなかった。時間だけが虚しく流れた。(つづく)

 

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(11)―1mile to water, 1 foot to hell! ―(愚か者の回想四)

2020年10月18日 14時47分44秒 | 日記

 先生との出会い(11)―1mile to water, 1 foot to hell!―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 それは一人でタワーに上るようになって半月ほどが過ぎた頃のことだった。

 プールで今日起きたことを話そうとすると、Yちゃん、「郵便が来ていたわよ。」と母が言った。封書である。

 発信者は世界青少年交流協会となっている。忘れていた。

 卒業直後、暇なのでたまたま見つけた交換学生募集に応募していたのだ。しかし、ずいぶん前に不合格通知が来ていたはずだ。

 開封してみると繰り上げ合格という趣旨のことが書いてあった。辞退者が出たらしい。さてどうする。

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 プールではようやくタワーに上れるようになったばかりだ。

 ここで、約一か月間もプールに出ないのは難しい。

 新人とはいえ見習いが終わりすでに正勤務者として勤務表に名前が入っている。

 事実上、欠員が出るわけだから補充されても仕方がない。

 自分の居場所が無くなるかもしれない。

 不安になった。泳げなくなるのではないかという不安もあった。

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 また、これとは別にもう一つ不安があった。

 このプログラムに参加するには30万円が必要だった。

 とんでもない額だ。

 それでもすべての費用の三分の一程度だと書類には書いてあった。

 受入国と財団がそれぞれ三分の一ずつ負担し、残りの三分の一を参加者が負担するのだという。

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 「どうしよう。」と母に言うと、「行きたいの。」と問われた。

 無知な私は迷っていた。

 プールでは正勤務者になったばかりだ。その時はプールの仕事が楽しく、充実していた。

 しかし、若いときに短期間でも海外を見ることには非常に大きな意味がある。

 母はそう考えていたようだ。このプログラムに参加することを勧めてくれた。

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 「参加費はどうしようか。」(私)

 「お父さんに相談しなさい。」(母)。

 50,000円で裏切られたので私は父を信用していなかった。

 しかし、額が額だけにこれは父の英断を仰がなければならない。

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 少額ならば母が出せると言った。しかし、全額は無理だと言う。

 本当に行きたければ父に頭を下げろと母が言った。私は父に頭を下げた。

 父は母の口添えもあり「分かった。」と言った。

 薄給自衛官にとって30万円という額は重かったはずだ。今でも感謝している。

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 参加費の工面はできた。だが、プログラムに参加するならばプールの方も考えなければならない。

 こっちは自分が決断すべきことだ。誰にも切り出せないまま数日が過ぎた。参加費の工面ができたのだから何とかしなければならない。

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 チーフのO先輩に相談した。私が話し終わると同時に、「行ってらっしゃい。帰ってきたら勤務に復帰すればいい。」そう言ってくれた。

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 18歳の私は米国へ約1カ月の旅に出ることになった。1972年の夏であった。

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 旅の行程はハワイ経由でロスアンゼルスに入り、数泊ホウムステイした後アリゾナ州のフィーニックスへ移動する。

 そこで一週間程度ホウムステイし、フィーニックスカレッジというところで一コマお勉強。ジャパンナイトというお祭で交流。

 その後はニューヨーク、バッファロウ、サンフランシスコを経て帰国。何のことはない、ほとんどが観光旅行だった。

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 観光旅行だったとはいえ、18歳の私には強烈なインパクトがあった。

 第一に、ものの見方が変わった。価値観が変わったというのかもしれない。妙なこだわりが無くなった。

 第二に、「何とかなる」という根拠の無い自信がついた。

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 出発前に合宿研修があった。辞退者の補充なのですでに研修会は始まっていた。

 後から加わるという状況なので勝手が分からなかった。この時点で少し違う目で見られていた。18歳は最年少だった。

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 研修で何を学ぶのか。まったく分からなかった。米国へ行くにあたり最も不安だったのが言葉だ。

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 中学校では7点まで落ちた。高校では厚みが一センチにも満たない薄い教科書が年間一冊。しかも完結はしていなかった。到底実力がつく授業だったとは言えない。

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 三年生の時、パワフルな先生が転任して来た。授業は一見活気があった。だが、試験では全滅した。結局、空回りしていた。

 3学期の始め頃、およそ効果の無い受験勉強をしていた私に仲間が質問してきた「エー動詞とは何だ。」と。
 急に受験勉強を始めた男だ。「なんだそれは。」と訊き返すと「H、お前、知らないのか。ビー動詞ってのがあるだろう。エー動詞は無いのか。」と、真顔だった。
 悲しくなった。さすがの私もそのあたりのことは知っていた。

 このクラスはそういうレベルだったのか。そう思うとなんとなくほのぼのと可笑しくなった。

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 そんなわけだから私がこの研修にかける期待は大きかった。少しは英語が話せるようになるのだと思った。

 しかし、全く違っていた。たしかに英語の研修もあった。

 だが、研修会では英語が得意な参加者がしゃべりまくり、その後、各自が片言の英語で自己紹介をするという程度のものであった。

 その程度の会話なら私にもできた。発音はメチャクチャだったが。

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 高校三年生の時、受験勉強と言っても私には何もできなかったのでラジオのイングリッシュエイジと大学受験講座を毎日聴いていた。

 とにかく毎日聴き続けた。しかし、全く分からなかった。やはり自分は馬鹿だと諦めていた。ところが、この研修に参加して自分は馬鹿ではないと安堵した。

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 参加者は皆、英語が話せる青年だと思っていた。

 だが、そうではなかった。かなりの年配者もいた。英語が全く分からない人もいた。「私は自信をもって言える。英語は話せない。」そう語る年配者もいた。

 募集案内には「日常会話が出きること。」と書いてあった記憶がある。

 親近感を持ったがその人は私を嫌った。数日間の研修だったが何となく無事終了した。

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 羽田発 JAL062便。これが私達が乗る飛行機だ。

 高校時代の先輩数名が送りに来てくれた。嬉しかった。

 離陸後、その中の一人、On先輩が私の自宅に「H君が乗った飛行機が無事離陸しました。」と電話で連絡してくれた。

 帰国後、母は「立派な先輩だ。」と感謝していた。

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 ホノルル国際空港経由でロスアンゼルスに着いたのは夕方か夜だったと記憶している。

 ホストファミリーが迎えに来てくれた。

 空港でそれぞれのホストファミリーが私達を連れ帰ってくれた。

 私は年上のおじさんと一緒だった。

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 ホストファミリーの自宅は郊外にあった。

 立派だった。山の傾斜を利用して建物の二階と一階のいずれからも出入りができる構造になっていた。

 ベッドが二台入ってもまだまだ余裕のある大きな部屋で米国初日の夜を迎えた。

 ずいぶん疲れていた記憶がある。

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 翌朝、ホストファミリーのパパがお越しに来てくれた。

 ニコニコしているが言葉は通じなかった。

 笑顔は万国共通語だと実感した。

 ホストファミリーのママがディズニーランドへ連れて行ってくれた。

 生まれて初めて行った遊園地がディズニーランドとなった。

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 第二の訪問地はアリゾナ州フィーニックスだ。

 砂漠につくられた軌跡の町だ。

 空港から訪問先へ向かうバスでは鼻から空気を吸うと鼻毛がこげそうだった。「サウナだなぁ~、これは。」と同乗者が言った。

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 水道とエアコンがなければ人は住めない。

 1mile to water, 1 foot to hell! と書かれた絵葉書を買った。

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 炎天下、停めてある自動車に乗るときは注意しなければならない。

 不用意にドアの取っ手をつかむと火傷する。

 私達のホストファミリーは私達の滞在中に新車を買った。

 その日の前日、ホストファミリーの娘さんが私達に、ニコニコしながら興奮気味に何か話してくれた。new car と with air conditionerという単語だけが聞き取れた。エアコン付きの新車が来るのだと分った。それ以前の自動車のエアコンは不調だった。

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 昼間の暑さは凄まじい。

 だが、太陽が上る直前は快適だった。

 早朝、砂漠の日の出を眺めに外へ出た。大変キレイだった。

 部屋に戻るとホストファミリーのパパに「ガラガラヘビには気をつけろ。」と言われゾッとした。ヤバかった。私はデッキシューズを履いていた。

 彼らがこの暑さの中、Levi'sのインディゴジーンズにロングブーツを履いている理由をこのとき初めて知った。

 その夜、ライフル銃と散弾銃の使い方を教えてくれた。滞在中使うことは無かった。

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 多くの家にはプールがあった。家庭用プールなのに飛び板があった。

 小さいプールだが足がつくところと水深が3m以上ある部分とがあった。

 その境目には目に見える境界は無い。怖い。

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 2時間ほど裸でいるだけで日本のひと夏分の日焼けをした。

 小学生の時の分まで日焼けをした気がした。 

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 ハプニングがあった。

(つづく)


先生との出会い(10)― ライフガード(5) 溺れるカップル ―(愚か者の回想四)

2020年10月17日 15時49分32秒 | 日記

先生との出会い(10)― ライフガード(5)溺れるカップル ―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 「あの人たちは女性が怖がっているのに中央あたりから入ろうとしていたんです。私が注意すると、『うるせいな。泳げるよ。』と言ったのです。女性も『泳げるわよ、失礼ね。』と言ったのです。」と事情を説明してくれた。

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 女性とお仲間たちは浅いところで泳ぎ始めた。パトロールのとき確認のため眺めたがおよそ泳げると言える状態ではなかった。それは男性諸氏も同じであった。

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 このときだけでなく、この種の出来事は頻繁に起きた。男女各1名のカップルらしき二人連れが深いところから入ろうとしているときには要注意だった。

 もちろん、「そこは深いですよぉ~。」と注意を促すが、ほとんど反応はない。

 「泳げるよ!」とチーフのときのように攻撃的な態度をとる人もいたが私はチーフのようにはできなかったし、しなかった。

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 男性は足の届かない女性に抱きつかれるのを期待しているようにも見えた。

 女性もそうしてじゃれたいのだろう。実際、そういう場面を何度も見た。他でやってくれと言いたい。

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 だが、抱きつかれた男性はほぼ100%が沈んだ。

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 あの事件程悪質ではないので私はパトロールを呼びカップルの近くで待機してもらった。

 パトロールには文字表現のブロックサインで「その二人抱き着いて溺れます。よろしく。」と伝えた。

 監視員にすぐそばに立たれると不快に感じる人もいる。そういう人に限って、それを嫌って泳ぎだすのである。

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 やはり溺れた。

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 この種の人たちは実際に溺れてみないとライフガードの言うことには従ってくれない。ときには男性より女性の方が泳げる場合がある。

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 チーフがあそこまでやるのを見たのは初めてだった。チーフは某大学の4年生で、ライフガード歴もそのくらいである。水泳選手という体格ではなく、どちらかと言えば小柄で地味な雰囲気の人であった。

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 出入口から入場しプールに直行する人の中には水深を知らない人が多い。あの女性もそうだった。

 あの女性が水深を知らないことを知っている男たちが悪ふざけをしようとしたらしい。これをチーフは見破った。

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 人が「泳げる」と言う場合、その「泳げる」の程度は様々だ。本当に泳げる人は本当に泳げる。だが、水底に足を付けながらバチャバチャと手を動かして進む人や50メートルくらいなら本当に泳げる人も足が付かないところでは泳げなくなる人がいる。この女性も全く泳げないわけではなかったのかもしれない。だから「泳げるわよ、失礼ね。」と言ったのだと思う。

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 しかも、監視台からメガホンで浅いところへ移動するよう声を掛けられれば体裁が悪いのだろう。「泳げるわよ、失礼ね。」とも言いたくなる気持ちは分かる。しかし、あのまま水深2メートルのプールで泳ぎだしたら必ず溺れていただろう。

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 ちなみに、当時、学校体育では水泳検定(?)というのがあった。私が溺れたのもこの検定会だった。

 体育の授業なので泳げないと成績が低くなる。今の事情は知らないが私はいつも「3」なので気にもしなかった。

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 教諭も子供に自信を付けさせようと「じょうず、じょうず、泳げた、泳げた。」とほめる。しかも、25メートルとか50メートルなどと検定合格証まで出していた。私は25m泳げることになっていた。この水泳検定には問題があるように感じていた。

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 彼女もこのレベルでは泳げると自信を持っていたのだと思う。

 しかし、「泳げます。」と強がってはいたものの、「水深5メートルです。」と告げられて怖くなったのだろう。

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 このチーフのようになりたいと思った。

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 帰宅すると私宛の封書が来ていた。「プールをやめなければならないか。」と、そう思わざるを得ない内容だった。

(つづく)


先生との出会い(9)― ライフガード(4)「泳げます!」、「泳げません。」 ―(愚か者の回想四)

2020年10月13日 18時01分59秒 | 日記

先生との出会い(9)― ライフガード(4)「泳げます!」、「泳げません。」 ―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 チーフがタワーから降りて来た。

 「あなた泳げませんね。」

 静かで穏やかな口調だが鋭かった。

 「泳げるよ。なぁ、〇子(女性の名前)、泳げるよなぁ~。」

 最初に口を開いたのはリーダー格らしき男だった。いかにも不満げにチーフを睨み言い返した。

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 夏場だったのでライフガードはたくさんいる。集まって来たライフガードが入場者を威圧したと言われてはまずい。

 チーフは私を除き、集まって来たライフガードをすべて排除した。そして再びこの女性に向かって言った。

 「泳げますか。」

 「泳げます。」

 女性は堂々ときっぱり答えた。

 「ほらみろ、泳げんだよ〇子は。もういいだろぉ~。」そういって男たちは立ち去ろうとした。

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 ところが、その時、チーフはその女性に向かってとんでもないことを言った。 

 「すみませんが泳いでいただけますか。」と。

 これは大変なことになった。万一、女性が泳げたら大事になる。頭を下げるだけでは収まらないだろう。しかし、チーフは穏やかながら毅然とした態度で応対をつづけた。男たちの中には熱くなり始めているものもいた。

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 女性はチーフの意外な言葉に少し動揺したかに見えた。だが、すぐに立ち直り、「いいわよ。」と挑戦的な表情で言った。

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 「あちらは公開中ですからこちらのプールで泳いでください。H君、ガード、頼むね。」

 私が指名された。残されたのはこのためだった。

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 あちらのプールとはダイビングプールである。ライフガードが休憩の時、自主トレをする水深5メールのプールである。

 ダイビングプールも公開しているが、公開しているのは1メールと3メールだけで残りの5メール以上は公開してはいない。そこで、公開していない10メールの飛び板の下がライフガードの練習場となっている。

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 私が先に水に入り少し泳ぎ10メートル程先で待機した。

 「H君、そんなに離れなくていいよ。」とチーフ。少しプールサイド側に戻った。7メートルくらいの所で浮いていた。

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 プールに向かう女性の足取りが心なしか変わった。少し離れた水面からもその表情が変わるのがはっきり分かった。

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 「ここは水深5メートルです。どうぞ、ここからあのライフガードがいるあたりまで泳いでください。7メートルくらいです。」

 プールは階段状に深くなる。片足を入れた時点で「ごめんなさい、私、泳げません。」と女性が言った。

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 「分かりました。浅いところで泳いでくださいね。」チーフは全く表情を変えずに言った。男たちは無言でその場を離れた。

(つづく)