同監督の問題作『ロブスター』と同様、(訓練中の飼い犬にはなぜか名前がちゃんとついているものの)この映画の主要登場人物に名前がない。ギリシャ哲学風にいえば“イデア”とでも表現すればいいのであろうか、自己を定義する意識が完全に欠如しているのである。特に“外の世界は危険に満ちている”という誤った認識を刷り込まれた3人の子供たちには。俳優陣の下半身(局部含む?)だけを映したカットがやたらと目につくのも、同じ理由による演出であろう。
その閉ざされた世界は、プッシーを“大きな明かり”、ゾンビを“黄色い小花”として解説する例文つきのポエジーな?記号定義にはじまり、家族を撮影した(面白くも何ともない)ビデオ鑑賞という“アメ”と教育上よろしくないものに子供たちがふれた時にくだるマジもんの暴力という“ムチ”、そして子供たちを家の外に一歩も出さないという“監禁生活”によって成立している。マスコミによる情報統制によって肝心なことは国民に何一つ知らされない現代社会のメタファーでもあるのだろう。
しかし、兄弟の性欲解消のため父親が定期的に家へつれてくる外部の女によってもたらされるあるものによって、突如として姉さんが“イデア”に目覚めてしまうのだ。かつてゴダールが“悪の被造物”と呼んだセルビデオを両親に内緒で夜中にこっそり見てしまった姉さんは、その日をさかいに『ロッキー』の台詞を完全コピー、プールで『ジョーズ』のまねをして兄弟の足にくらいつくは、恒例の家族学芸会では悪い夢に出てきそうなド下手な『フラッシュ・ダンス』を披露する。
どこかの誰かが名作映画へのオマージュなどというデマを流したらしいが、スタローンやスピルバーグといった権威にたてついたみせたランティモスの勇気をほめたたえるべき演出であろう。しかもとびっきり悪意に満ちたメソッドが効いているのである。犬歯が抜ければ外界に出ることができると両親に教えられていたとおり、ダンベルで犬歯を叩き折って父親のベンツの後部トランクにしのびこんだ姉さん。妹にブルースと呼ばせてイデアに目覚めた姉さんは、ラストどんな“悪の被造物”に影響されたのだろうか。
籠の中の乙女
監督 ヨルゴス・ランティモス(2009年)
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