90年代経済成長著しい台北が舞台の青春群像劇だ。カップルとおぼしき男女が複数登場するのだが、誰が誰と付き合っているのか映画中盤になるまでなかなかわからない不思議な映画なのである。台湾ニューシネマを代表する映画監督エドワード・ヤンは『牯嶺街少年殺人事件』(未見)を撮った後、次に「(敬愛する)ウディ・アレンのような映画を撮るんだ」と周囲に公言していたという。濱口竜介によれば『牯嶺街少年殺人事件』も、主要登場人物の姿形がわざと曖昧に撮られているらしく、映像と音響がバラバラに解体されている非常に分かりにくい作品だそうなのだ。
映像の奥行きを感じる縦位置の構図、非常に短いタームで次々と場面展開する目まぐるしいカット、その合間合間に差し込まれるブラックバックのヘッドライン....。外見は昭和のジャパン・トレンディドラマといった趣なのだが、それらの演出がストーリーテリングを著しく妨げているのである。さらには、以前日本のTVでも紹介されたことのある台湾国会議員の皆さんのように、口角泡を飛ばしながらの熱い場外乱闘をひたすら繰り広げる登場人物たち。ウディ・アレンとはいいながら、その実ゴダールあたりを意識した作品なのではないだろうか。
私はこう思うのだ。恋人たちの会話の中にしばしば登場する“大国(中国)”と台湾との関係性を、中身のない表層的な会話劇の中に投影させた作品なのではないか、と。折しも89年に起きた天安門事件により“政治民主化”の望みを無惨にも打ち砕かれた台湾若者たちの叫びが(間接的に)反映された映画だったなのではないだろうか。バブルがはじけその後“失われた30年”に突入したわが国に代わって、鄧小平~江沢民の開放経済政策によってGDP世界第二位の地位についた大国中国。その中国経済発展の恩恵をここ台北の人々も間違いなく受けていたはずなのである。
「金と情は別」「(結婚しても)一国二制度だ」「天安門も普通なのか」.....当然言論や思想の統制は今日以上に厳格だった時代である。YouTubeで習近平を名指しで批判する三低三少の中国人のような勇気は、当時のエドワード・ヤンにはなかったはず。相思相愛の“フリ”はできるけれど、そのまま取り込まれてしまうのは真っ平ゴメンだわ。でも自立するには先立つ物が必要だし、贅沢を覚えてしまった私達が孔子が唱える清貧生活に戻れるはずもない。バブリーな生活をエンジョイしながら、自立しきれていないもどかしさをどこかで感じている台北の若者たちのジレンマが、そこはかとなく伝わってくる映画なのである。
映画公開(94年)から30年が経過、大方の予想通りやはりインチキバブルがものの見事にはじけ飛んでしまった中国。あろうことか我が国では親中石破内閣が誕生し、中国移民受入れの準備を着々と進めているというではないか。バイデン政権ががポンコツ軍事兵器を岸田政権に押し付けたように、無用の長物と化しつつある粗悪な太陽光パネルと電力不足のため国内需要のほとんどない電気自動車の大量生産にすがるしかない習近平政権は、石破“モー◯ー”首相にも何かしら援助を求めているに違いない。そんな石破が世論に逆らえず早期退陣し、反中の高市“タリバン”早苗が首相の座に就いたならば、その時ディールの切り札になるのは、やはりこの“台湾”カードだと予想されるのだがどうだろう。
エドワード・ヤンの恋愛時代 4Kレストア版
監督 エドワード・ヤン(1994年)
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