黒沢清はいつまで映画を撮り続けるのだろうか。かつての教え子であった濱口竜介たちのお情けでベルリン国際映画祭銀熊賞(2020)に輝いたものの、本作を含め近年撮った映画はほとんど誰がどうみても凡作の域を脱していない。その濱口とのトークイベントの中で、「撮影現場で撮れてしまったものは、一回限りの非常に貴重なものなので、可能な限り大切にしたい、という考え方がどうも染み付いているんです。一回限りのフィルムに記録されたものは神聖であるという考え方で、全然そうじゃないと考える人もいますよね」と語っていた黒沢。映画撮影時の“偶然性”について濱口が質問をぶつけた時の回答である。
“偶然性”も含め全てをコントロールしようとする濱口の方法論に対し、黒沢が近年撮った作品は成り行き任せで、映画の考証ごとや合理性、プロットなどが結構“いい加減”に作られている気がする。ラテン系のフランス人スタッフに囲まれていたからというわけでもなかろうが、ラストに近づくにしたがってドンドン緻密性を失っていく本作シナリオにはかなり問題があるだろう。拘束具に繋がれた状態の拷問シーンや死体メークにノリノリだったというマチュー・アルマリックら俳優陣に比べ、作り手側の熱量がまるで感じられないのはどういうことなのだろう。
何の仕事をしているのかよくわからないけれど、心療内科医をしているサオリ(柴咲コウ)の元に定期的に通ってくる日本人男性(西島秀俊)が登場する。「(ぬるま湯に浸かっている)日本に戻れば終わりだから」と常々サオリに語る男は、心は左・財布は右のフランスには住みにくさを感じながらもとどまり続け、とうとう自殺をはかってしまう。サオリの処方する薬が全く効かないほど心を病んでいた男は、まさに映画監督黒沢清の分身ではなかったのだろうか。精神を安定させるため撮りたくもない映画を撮り続けている、そんな気さえさしてくるのである。
人身売買組織の手に落ちた娘の敵討ちが終わって「これで終わらせられる」とひと息ついたのも束の間、今度は日本に離れて住んでいる旦那(青木崇高)に因縁をつけて復讐を続ける気満々のサオリ。“(復讐を)終わらせる”ことよりも“続けていく”ことに生きる意味を見出している、ある意味病みきった人間なのであろう。それは、これぞという傑作を世に送り出すよりも、毎年のようにダラダラと凡作を発表し続ける黒沢清の姿とどこか似ている気がするのだ。結果よりもプロセス、潔い引退よりも女々しい継続に拘る黒沢清の監督スタイルは、やはり“蛇の道”と呼ぶに相応しい。
蛇の道
監督 黒沢清(2024年)
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