ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

遠い山なみの光

2019年12月31日 | 映画評じゃないけど篇



現在では英国を代表する作家となったカズオ・イシグロが5歳になるまで過ごした長崎の記憶、そこに1950年代の小津や成瀬が撮った映画の要素を加え再構築された“ナガサキ”が舞台になっている。作家自身の薄れゆく故郷の“記憶”と、本作の語り部エツコがすり替えた“記憶”が、戦後のパラダイム変換を背景に微妙なシンクロをみせる小説である。

離縁後ケイコという娘を連れイギリスに渡り再婚したエツコによる、日本でケイコを妊娠中知り合ったシングルマザーサチコとその娘マリコについての回想が核となって物語が展開する。実はこのケイコ、渡英後引きこもりの末首を吊って自殺しているのだが、その自殺や前夫二郎と離婚した原因について詳細は意図的に省略されており、サチコ及びマリコとエツコとの会話の中に隠されたある仕掛を発見することによって、はじめて真意が浮かびあがる非常にカズオ・イシグロらしい作品に仕上がっている。

多くの方が指摘するとおり、語り部であるエツコの回想の中で、エツコ→サチコ、ケイコ→マリコというエツコにとって都合のいい記憶にすり替えられているのだろう。原爆という生々しい記憶を刻む長崎を離れ、子供を連れイギリスに逃げるように渡ったエツコ。日本時代の暗い思い出を一時的に封印したものの、ケイコの自殺によってその封印が一部解け、エツコの中にサチコとマリコという架空の別人格を作り出したのではないか。その構造は、デヴィット・リンチが『マルホランド・ドライブ』や『インランド・エンパイヤ』で見せた“死後の夢”によく似ている。

イシグロが参考にしたという小津作品の中に本小説と非常に似かよった雰囲気の映画がある。1957年に撮られた『東京暮色』。妻に逃げられ次女と二人暮らしの銀行員。夫のドメバイに耐えきれず子供を連れて実家に逃げてきた姉。男に逃げられ妊娠中絶後事故死してしまう妹。こんな救いのない物語のはずなのに、小津はまるでコメディのような演出を施して観客の違和感を煽っている。戦後いとも簡単に貞操を捨てるようになった女性の価値観変化に、小津安二郎が覚えたイメージをそのまま映像化したような異色作である。

くしくも『A Pale View of Hills』とタイトリングされたこの小説には、その価値観の変換にうまく対応できなかった女性たちの苦悩や自責の念が、記憶のすり替えという一種の狂気によって表現されているのではないか。映画『東京暮色』同様、離婚や自殺という具体的なトピックにはあえてボカシを入れ、何気ない会話における言い間違いや重複によって読者に隠された事実を妄想させる技法は映画的でさえある。純文学だと思って読んだらホラーだった、と感想を語った読者の気持ちもよくわかるのだ。

この小説の翻訳家の元にカズオ・イシグロから、登場人物の名前にある漢字を使用しないで欲しい、という事前のメッセージが届いたらしい。“幸”子と“真”理子だけはやめてくれ、という具体的な指示だったと思うのですが、皆さんはどう思います?

遠い山なみの光
著者 カズオ・イシグロ(ハヤカワepi文庫)
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