中高大とカトリック系の青山学院に通っていたという奥山大史監督は、海外のメジャーな映画祭にもすでにお呼ばれしている若手のホープ。『ナミビアの砂漠』(未見)の山中瑶子監督と共に、名前を覚えておいた方がよいだろう。作風は大分異なるものの、もしかしたらポスト濱口竜介になりうるポテンシャルをもった映画監督なのかもしれない。
さて、その奥山監督による商業映画長篇1作目となる本作は、お父さんの転勤で1年間ミッション系の小学校に転校させられたユラ君が主人公。学校の講堂で一人「友達ができますように」とお祈りを捧げたところ、小さいイエス様(チャド・マレーン)が突如現れてユラ君の願いをかなえてくれたのだ。サッカー上手のカズマ君と仲良しになったユラ君だが、次第にお金持ちのカズマ君に対し憧れというか嫉妬心を抱くようになるのだった。
この小さいイエスを叩き潰すユラ君、その名前からしてお金に目が眩みキリストを裏切る“ユダ”がモチーフになっているに違いない。ならば、シングルマザーらしきタクマのお母さんはマリア、そして磔刑ならぬ◯◯◯◯◯に遭遇するタクマはキリストの分身ではないのだろうか。つまり、タクマ君との友情=《信仰》であり、小さいイエスと紙相撲をする1000円札は信仰とは相反する人間の《欲望》のメタファーなのかもしれない。
では、映画冒頭とエンディングに登場する“障子の穴”とは一体何を意味するのだろう。それには監督自らがこう答えている。「僕のおじいちゃんが障子に穴を開けていたと、亡くなったあとにおばあちゃんから聞いて。こじつけではあるかもしれないんですけど、亡くなる前にこれから自分が行くところをのぞいていたのかなって。今いる場所から外の世界や現世ではないところを見ようとすること。それが宗教すべてに通じることのような気がして、メタファーとして映画に取り込めないかなと考えました」
この障子の穴は聖書に書かれている“狭き門”を意味していたのではないだろうか。3回脱走した🐓はペテロに対するイエスの予言を、雪上サッカーはイエスの水上歩行(奇跡)を、タクマ君との抱擁(口づけ)はユダの背信を、3本の🪻はユダが受け取った賄賂を想起させる。要するにこの映画、あざといメタファーを盛り込んだ邦画にしては大変珍しい宗教映画なのであろう。サン・セバスティアン映画祭で評価されたのも、おそらくそれが主たる理由のような気がする。復活したイエスは小学校のはるか上空から、ユラとタクマが楽しそうにサッカーに興じる様子を静かに見下ろすのであった。
僕はイエス様が嫌い
監督 奥山大史(2018年)
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