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前作『メビウス』で主役を演じるはずだっだ女優からパワハラで訴えられたギドクは、本作でその懺悔をしているのではないだろうか。今や韓国のシュワちゃんと化しているマ・ドンソクが、👧を良からぬ組織の一味に殺された恨みをはらすため、人生の負け組たちを集めたなんちゃって自警団を組織、👧殺しに関わった奴らを一人一人拉致しては謝罪文を書かせていく。
そのバイオレンスなストーリー性よりも、ユニークな演出法にむしろ注目すべき作品だ。
その1:懲らしめる相手に応じて、変装する衣装がコロコロと変わる。ある時は軍隊、ある時は秘密警察、ある時は清掃員と実に多彩なのだ。
その2:一番はじめに拉致された男が、なんと一人8役を演じる大胆すぎるキャスティング。ある時は、ドメバイ男、ある時は自動車修理工、そしてある時は...
その3:『パストライブス』にも出ていた男優が、米アイビーリーグを卒業した就職浪人を演じていて、なぜかマ・ドンソクとだけ英語で話すシーンが違和感たっぷり。
悪も善となり、善もまた悪となる。加害者が被害者になる時、実はその善悪も入れ替わっているのでは。悪人をいたぶり懲らしめることは、正義と信じて疑わなかったマ・ドンソクだったが、ラスボスを電気ショックで痛め付けているとき、仲間割れが発生。そもそも苦そのものの生において、善も悪もないのではないか。水槽に閉じ込められた雷魚とドジョウのように、苦しめ合うことがむしろ生のエネルギーになっていることに気づくのである。
善や悪をただ演じているだけの世界では、人間のアイデンティティさえ不確かなものとなりえる。役名が一切クレジットされなかったり、その1~3までの一風変わった演出は、その一点を強調させるためではなかったのだろうか。芸術に真剣に取り組むあまり俳優に厳しく接することが、はたして全面的に正しいといえるのだろうか。映画監督と俳優が苦しめ合うことだけが、映画を撮る上でベストな方法といえるのか。(前作における主演降板という)被害者から一変加害者として訴えられたギドクはこの映画を撮りながら、そんな疑問にとらわれ続けていたに違いない。
われは誰なのか?と自問自答しながら....
殺されたミンジュ
監督 キム・ギドク(2014年)
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