“死”を軽く扱いすぎである。お釈迦様でさえ
「あるかどうかわからない」と答えた死後の世界を、本作はいとも簡単に「あるよ」と言い切ってしまっている。
岸辺とはつまり彼岸と此岸を意味する“生死の境界”のことを指しているのだろうが、未練を残したまま死んだ人間の亡霊が、(いくら○の中とはいえ)いとも簡単にあの世とこの世をいったり来たりできる設定とはいかがなものか。
観客の関心は、登場人物の誰が死んでいて誰が生きているのかのただ1点に絞られる。が、自殺した優介(浅野忠信)の亡霊が瑞希(深津絵里)の疑問にあっさりと即答するため、観客の推理する喜びも奪ってしまっている。
ナイト・シャマラン唯一の傑作『シックス・センス』では、オスメント以外の登場人物が決して幽霊のウィリスと視線を合わせないという繊細な演出法で、死者と生者を明確に区別していたのに対し、本作で黒沢のとった演出といえば、不自然なライティングと耳鳴りのような効果音のみ。
一介の歯医者にすぎなかった優介が、どこかで聞きかじったような量子理論→宇宙の存在原理を村人に講義するシークエンスにも大いに無理がある。無の存在論を通じて死語の世界を説明しようとした浅野に入れ知恵したのは、おそらく哲学好きなフランス人だろう。
すっかりカンヌの常連におさまり、外国人からお墨付きをもらえそうな映画しか撮らなくなった黒沢清。刃先が丸くなり切れ味も鈍くなってしまった“ホラー“という名のメスでは、児童書レベルの原作から人間の本質をえぐり出すことなどとてもできないだろう。
岸辺の旅
監督 黒沢清(2015年)
[オススメ度 ]