最近キム・ギドク作品にすっかりハマっている私は、ギドクの弱点は一体どこなのだろうと考える機会が多くなった。芸術的ともいえる映像美、メタファーに満ち満ちた寡黙な演出、スキャンダルの裏側に隠されたピュアネス・・・。工場労働者出身の元軍人であるこの無骨な男のどこにそんな才能が備わっていたのか不思議でしょうがないのだ。映画エリートと呼ぶにはほど遠いギドクの出自を考えると、映画を撮るために生まれてきた“天才”としか思えないのである。
この『春夏秋冬そして春』は、それまでの暴力的スタイルから一変、東洋の美しい四季を人間の一生に重ねた叙景的な作品に仕上がっている。山間の湖に浮かぶ古寺で暮らす和尚と小坊主。そのまま<そうだ京都へ行こう>のJRポスターに使えそうな風景カットは息をのむほどに美しい。ギドクによれば、シナリオを用意せずに即興的に撮影にのぞんだというから驚きだ。(いつものように)ほとんど台詞らしい台詞がないのも、そのせいなのかもしれない。
一見非のうちどころが無いように見えるこの作品、韓国ではマイナーな仏教のお寺を舞台にしているせいか考証事がめちゃくちゃ。この映画に出てくる古寺もギドクがお役所に頼み込んでわざわざ作らせてもらったセットのようで実際には存在しないらしい。こんな人里離れた山寺に年頃の女の子を一人預けていくというのも常識では考えにくく、煩悩の囚われ人となった弟子をロープでつるし上げムチ打ちする習慣など仏教には存在しないはず。
猫の尻尾で般若心経を床に書きあげるシーンをみたら、日本でまじめに修行しているお坊さんなら腰を抜かすことだろう。ここは少林寺なのかと見まがう、ギドク自らが熱演したアリラン修行に及んでは開いた口がふさがらなかった。要するにこの映画、歴史・伝統・文化といった考証事をすべて無視して作られているのだ。それでもアメリカ人には“東洋の神秘”ともてはやされ大ヒットを飛ばしたというからお笑いである。
「しゃべらなければ美人なのにねぇ」というタレントを時折TVで目にすることがあるが、ギドク作品に出てくるキャラクターたちも台詞をしゃべった途端、普通の人に見えてしまうのは気のせいだろうか。教養や知性が物を言うこの手の映画は、やはりしっかりとした考証担当をつけるべきだったと思うのである。この映画を見て、天才映画監督キム・ギドクの弱点が少しだけわかった気がした。
春夏秋冬そして春
監督 キム・ギドク(2003年)
〔オススメ度 〕
この『春夏秋冬そして春』は、それまでの暴力的スタイルから一変、東洋の美しい四季を人間の一生に重ねた叙景的な作品に仕上がっている。山間の湖に浮かぶ古寺で暮らす和尚と小坊主。そのまま<そうだ京都へ行こう>のJRポスターに使えそうな風景カットは息をのむほどに美しい。ギドクによれば、シナリオを用意せずに即興的に撮影にのぞんだというから驚きだ。(いつものように)ほとんど台詞らしい台詞がないのも、そのせいなのかもしれない。
一見非のうちどころが無いように見えるこの作品、韓国ではマイナーな仏教のお寺を舞台にしているせいか考証事がめちゃくちゃ。この映画に出てくる古寺もギドクがお役所に頼み込んでわざわざ作らせてもらったセットのようで実際には存在しないらしい。こんな人里離れた山寺に年頃の女の子を一人預けていくというのも常識では考えにくく、煩悩の囚われ人となった弟子をロープでつるし上げムチ打ちする習慣など仏教には存在しないはず。
猫の尻尾で般若心経を床に書きあげるシーンをみたら、日本でまじめに修行しているお坊さんなら腰を抜かすことだろう。ここは少林寺なのかと見まがう、ギドク自らが熱演したアリラン修行に及んでは開いた口がふさがらなかった。要するにこの映画、歴史・伝統・文化といった考証事をすべて無視して作られているのだ。それでもアメリカ人には“東洋の神秘”ともてはやされ大ヒットを飛ばしたというからお笑いである。
「しゃべらなければ美人なのにねぇ」というタレントを時折TVで目にすることがあるが、ギドク作品に出てくるキャラクターたちも台詞をしゃべった途端、普通の人に見えてしまうのは気のせいだろうか。教養や知性が物を言うこの手の映画は、やはりしっかりとした考証担当をつけるべきだったと思うのである。この映画を見て、天才映画監督キム・ギドクの弱点が少しだけわかった気がした。
春夏秋冬そして春
監督 キム・ギドク(2003年)
〔オススメ度 〕