ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

できごと

2020年09月01日 | 星5ツです篇

ヨーロッパからハリウッドに招かれて力を失った映画監督は数あれど、その逆、アメリカからイギリスに渡って成功したジョゼフ・ロージーのようなケースは大変珍しい。いわゆる赤狩にあってハリウッドを追放されたロージーは、物語性や主人公への感情移入といったハリウッド的要素を意識的に排除することによって、ヨーロッパ映画界に確固たる地位を築いたといわれている。

元々はモノクロで撮影する予定だったという本作は、まっ昼間のロケ撮シーンが多いにも関わらず、カラーの彩度はかなり抑えられていて、見た目はヒッチコックのサスペンス風。ダーク・ボガート演じるオックスフォード哲学科教授宅をバックに鳴り響く冒頭のカー・クラッシュ音、水面を滑空する白鳥のはばたき音、ボートから川に落ちた時のドボン音…どちらかというと耳障りなこれら“効果音”が、観客の不安感を煽っているのである。

愛妻との間に3人の子供をもうけながら、別れた学長の娘や教え子のアンナ(ジャクリーヌ・サラザール)にちょっかいを出すスティーブン(ダーク・ボガート)。別居中の妻がいながらアンナとの関係を続けている考古学教授チャーリー(スタンリー・ベイカー)。そんな中年男の心をもてあそびながら、自分はちゃっかり貴族男ウィリアム(マイケル・ヨーク)と婚約してしまう小悪魔アンナ。表向きは3股かけられた中年男の痴情話なのだが、おそらくこの映画の真相は別のところにある。

原題は『Accident』。一見偶然起こったように見える交通事故が仕組まれたワナだったとしたら…教え子である貴族の子息や友人でもある考古学教授まで利用する利己的な主人公。しかもこの男自分では一切手を下さず、相手が勝手にドツボに嵌まっていくのをただ見ているだけの超知能犯、観客のみなさんも大いに騙されたのではないだろうか。根底にあるのは中産階級の貴族階級に対するルサンチマンであり、この辺は同監督作品『召使い』と共通したテーマといえるだろう。

本編にははっきりと描かれていないのだが、アンナとスティーブンの間には以前から関係があったのでは。アンナにチャーリーの書いた本を貸し与えチャーリーに興味を示すように仕向けたのも、うざったくなったアンナとの関係を清算したいと思っていたからに違いない。アンナがスティーブンの自宅をチャーリーとの浮気場所にわざわざ指定したのは、自分を捨てようとしているスティーブンへの当てつけ。浮気が妻ロザリンドに発覚することを怖れたスティーブンは、何も知らないウィリアムもろともアンナを亡きものにしようとした、それがこの事故に隠された真相ではないのだろうか。

最大のヒントは、深夜ロンドンから帰宅したスティーブンが腹が減ったと言ってオムレツをこさえる意味ありげなシーン。誰もいないはずの2階から1階のキッチンに降りてきたチャーリーとアンナ。スティーブンが無表情でそれを見つめながら皿を差し出すとチャーリーは無意識のうちにオムレツを食べ始め、それを横から奪い取り一口食しもういらないとばかりにテーブルに放り出すスティーブン。このオムレツこそスティーブンが捨てようとしたアンナのメタファーそのものではなかったのだろうか。〈俺が大切に育て上げた女とも知らずによくもぬけぬけと。お前が一度手をつけた女などこっちが願い下げだ〉

ところがどっこいアンナが車の中で生きていて最後のご相伴に預かったスティーブン。逆にスティーブンに弱味を握られたアンナは、浮気をばらす暇も与えられず急かされるようにオーストリアに帰国、スティーブンは見事証拠隠滅に成功するのである。カンヌ審査員特別グランプリに輝いた傑作ミステリーの真意にたどりついたあなたは同時に、アングロ・サクソンの血も凍るような冷酷な利己主義に気づかされることだろう。哲学とは結論を示す学問ではなく結論に至る過程を示す学問である、なるほどね。


できごと
監督 ジョゼフ・ロージー(1967年)
[オススメ度 ]




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