TAZUKO多鶴子

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今日の番組から…『太田圓三』と『木下杢太郎』について

2012-01-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言

 今日は午前中、絵画教室があり
 午後から少し休もうと思って
 テレビを付けて少しうたた寝をしていたのです。

 そんな中『復興せよ!~後藤新平と大震災2400日の戦い~』
 の番組で目が覚めました。

 後藤新平の言葉は以前のブログで書き込んだばかりですが…
 その言葉にも志が伝わります。

 番組の内容は
 震災復興に多くの方々が信念を持って戦った様子が描かれているのです。

 特にひと際私の心に残ったのは『太田圓三』。

 あの有名な東京の『永大橋』等の構想に
 画家や文学者の意見を聴いたとわれる
 今では考えられない人物。
 しかし少し前の日本では、そういう人物は稀にいた筈なのですが…。

 また、『太田圓三』の弟は詩人の『木下杢太郎』。

 その杢太郎は兄が亡くなった後『太田圓三』の永代橋を想って
 次のような詩を読んでいます。
 何とも云えない感情が沸き上がってくる詩です。
 宜しければお読み下さい。
 

  永代橋工事

  過ぎし日の永代の木橋は
  まだ少年であつたわたくしに
  ああ、どれほどの感激を與へたらう。
  人生は悲しい。
  またなつかしい、面白いと、
  親兄弟には隠した
  酒あとのすずろ心で、
  傳奇的な江戸の幻想に足許危く
  眺めもし、佇みもした。
  それを、ああ、あの大地震、
  いたましい諦念、
  歸らぬ愚痴。
  それから前頭の白髪を気にしながら
  橋に近い旗亭の窓から
  あの轟轟たる新橋建設の工事を
  うち眺め、考へた。
  これも仕方がない、
  時勢は移る。
  基礎はなるべく近世的科學的にして、
  建築様式には出来るだけ古典的な
  荘重の趣味を取り入れて造つて貰ひたい。
  などと空想して得心した。

  それだのに、同じ工事を見ながら、
  今は希望もなく、感激もなく
  うはの空にあの轟轟たる響を聴き、
  ゆくりなくもさんさん涙ながれる。

  あんなに好きであつた東京、
  そして漫漫たる隅田のながれ。
  人生は悲しい、
  ここは三界の火宅だと
  …ああ恐ろしい遺傳…
  多分江戸の時代に
  この橋の上で誰かが考へたに相違ない、
  それと同じ心持が今のわたくしに湧く。

  水はとこしへに動き、
  橋もまた百年の齢(よはひ)を重ねるだらう。
  わたくしの今のこの心持は
  ただ水の面にうつる雲の影だ。

    

  行く水におくれて淀む花の屑

  永代の新橋は

  亡兄の心血をそそぐ濺ぎ設計せるものにてありけるなり。

                  …… 木下杢太郎 ……

 
<太田 圓三> (太田円三、明治14年(1881年)3月10日 ~大正15年(1926年)3月21日)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。詩人・木下杢太郎の実兄
1923年の関東大震災後、帝都復興院土木局長に抜擢される。
帝都復興院では、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長の田中豊と共に主導した。
また、弟(木下杢太郎)が詩人であり、自身も文学を志したことがあったことから、橋梁のデザインについて文学者・画家などの意見を聴いた。

<木下 杢太郎>(1885年(明治18年)8月1日 ~ 1945年(昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、皮膚科の医学者、詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。大学医学部の教授を歴任し、また、南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的など言われるきらびやかな詩や戯曲を残した。堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、などの筆名も用いた。


参考資料:ウィキペディア