私が自由美術協会に出品して間もない頃
『井上長三郎は美術史に残る画家』だと岡山のベテランの作家に教えられました。
まだ井上長三郎先生が自由美術協会等
様々な日本美術の世界でトップクラブで活躍されている時でした。
井上長三郎先生にはご恩があり
絵の審査で救われたこともありました。
私が出品していたある時に落選しそうになったこともありました。
『僕はその絵は好きだよ!』
『そんな井上長三郎先生の一言で入選になったよ!』
と審査に入っていた岡山のベテランの作家から
教えて頂いたこともありました。
その当時作家たちの憧れで雲の上の存在でありました。
井上長三郎先生に京都の会合宴会で
光栄にも直ぐ隣の席でお話しさせて頂いたこともありました。
緊張三昧で何をお話ししたのか今でも思い出せません。
尊敬する画家の一人。
井上長三郎先生の絵を購入することが出来て最高に幸せです‼️
作家:井上長三郎
題名:『牛』油彩画
サイズ:0号
❮井上 長三郎(いのうえ ちょうざぶろう❯
1906年11月3日-1995年11月17日)は、日本の洋画家。
1931年、第1回独立美術協会展で同協会賞。
1953年から1956年にかけて、日本美術会の委員長を務める。
【経歴編集】
1906年11月3日神戸市に生まれる。2歳で両親に連れられ、大連に渡る。
1924年、帰国して太平洋画会研究所に通う。鶴岡政男、靉光と出会う。
二科展、独立美術協会展などに出品。
1929年、鶴岡政男らと太平洋画会研究所でストライキ。
1935年、独立美術協会会員となる。
1938年、フランスに渡る。
1940年、美術文化協会に参加。
1943年、鶴岡政男、靉光、松本竣介、麻生三郎、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明と新人画会を結成。
同年5月の美術文化協会第4回展に出品した「埋葬」と「騾」に続いて、9月、東京府美術館
(現東京都美術館)で開催された「国民総力決戦美術展」に「漂流」を出品するも、
これらは「暗く」「厭戦的」としてすべて撤収される。
1947年、自由美術家協会会員となる。
1956年6月、日本美術会の文化使節としてソ連に渡る。
1972年、第25回日本アンデパンダン展の実行委員長を務める。
『井上長三郎は美術史に残る画家』だと岡山のベテランの作家に教えられました。
まだ井上長三郎先生が自由美術協会等
様々な日本美術の世界でトップクラブで活躍されている時でした。
井上長三郎先生にはご恩があり
絵の審査で救われたこともありました。
私が出品していたある時に落選しそうになったこともありました。
『僕はその絵は好きだよ!』
『そんな井上長三郎先生の一言で入選になったよ!』
と審査に入っていた岡山のベテランの作家から
教えて頂いたこともありました。
その当時作家たちの憧れで雲の上の存在でありました。
井上長三郎先生に京都の会合宴会で
光栄にも直ぐ隣の席でお話しさせて頂いたこともありました。
緊張三昧で何をお話ししたのか今でも思い出せません。
尊敬する画家の一人。
井上長三郎先生の絵を購入することが出来て最高に幸せです‼️
作家:井上長三郎
題名:『牛』油彩画
サイズ:0号
❮井上 長三郎(いのうえ ちょうざぶろう❯
1906年11月3日-1995年11月17日)は、日本の洋画家。
1931年、第1回独立美術協会展で同協会賞。
1953年から1956年にかけて、日本美術会の委員長を務める。
【経歴編集】
1906年11月3日神戸市に生まれる。2歳で両親に連れられ、大連に渡る。
1924年、帰国して太平洋画会研究所に通う。鶴岡政男、靉光と出会う。
二科展、独立美術協会展などに出品。
1929年、鶴岡政男らと太平洋画会研究所でストライキ。
1935年、独立美術協会会員となる。
1938年、フランスに渡る。
1940年、美術文化協会に参加。
1943年、鶴岡政男、靉光、松本竣介、麻生三郎、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明と新人画会を結成。
同年5月の美術文化協会第4回展に出品した「埋葬」と「騾」に続いて、9月、東京府美術館
(現東京都美術館)で開催された「国民総力決戦美術展」に「漂流」を出品するも、
これらは「暗く」「厭戦的」としてすべて撤収される。
1947年、自由美術家協会会員となる。
1956年6月、日本美術会の文化使節としてソ連に渡る。
1972年、第25回日本アンデパンダン展の実行委員長を務める。