TAZUKO多鶴子

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横田滋さん遺族の言葉を隠し続けるメディアの異質さ

2020-06-12 | TAZUKO多鶴子からの伝言
https://www.zakzak.co.jp/soc/amp/200612/dom2006120005-a.html?__twitter_impression=true

「拉致などないと言ってきたメディアが…」横田滋さん遺族の言葉を隠し続けるメディアの異質さ 報じないなら存在価値なし! 

作家・門田隆将氏が言及
2020.6.12
記者会見する(左から)横田拓也さん、早紀江さん、哲也さん=9日、都内記者会見する(左から)横田拓也さん、早紀江さん、哲也さん=9日、都内
門田隆将氏
 北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(55)=拉致当時(13)の父、横田滋さんが亡くなったことを受けて遺族が記者会見を行った際、息子の哲也さん(51)が、メディアやジャーナリスト、政治家などを厳しく批判した。ところが、この発言は主要メディアでは、ほぼ報じられなかった。長年、拉致問題を取材し続け、『新聞という病』(産経新聞出版)という著書がある、作家でジャーナリストの門田隆将氏に聞いた。



 「ネット社会になって、真実を無視して隠し続けるメディアの異質さに、多くの国民が気付き始めている」

 門田氏はこう語った。


 その解説は後述するとして、注目の記者会見は9日、東京・永田町の議員会館で行われた。滋さんの妻、早紀江さん(84)と、双子の息子、拓也さん(51)と哲也さんが出席した。

 哲也さんは、病院や教会の関係者へのお礼や、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長への苦言を語ったうえで、一部のジャーナリストやメディア、政治家らが、拉致問題を利用して安倍晋三首相や同政権を批判していることを一刀両断した。

 ネット上では、この発言部分を編集した動画まで拡散され、多数再生されている。だが、主要メディアの反応は鈍く、ユーザーの間には強い怒りや不信感、失望感が広がっている。これは、極めて深刻な事態だ。

 門田氏は「横田滋さんの信念が強く、人を思いやる人柄が、ここまで拉致問題を動かしてきた。心からご冥福をお祈りしたい」と話したうえで、次のように解説した。

 「哲也さんの発言は、今回の記者会見でも非常に重要で、みんなが忘れている『北朝鮮による拉致事件のタブー』について言及・示唆していた。つまり、一部メディアは、北朝鮮を『地上の楽園』と報じていたこと。1988年に梶山静六国家公安委員長(当時)が国会で『北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚』と答弁したのに、メディアがほぼ取り上げなかったこと。多くのメディアが『ソ連や中国、北朝鮮が善』としてきたため、拉致事件は存在しないことにして無視し続けたことだ。タブーを避けて報じないなら、もはやジャーナリストではない。メディアの存在価値もない」



 ■「拉致するはずないでしょ」と言ってきたメディア 横田哲也さんの発言

 「一番悪いのは北朝鮮であることは間違いないが、拉致問題が解決しないことに対して、あるジャーナリストやメディアが『安倍総理は何をやっているのか』という方もいる。北朝鮮問題が一丁目一番地で掲げていたのに『何も動いていないじゃないか』という発言を、ここ2、3日のメディアで私も見て耳にしている。安倍首相、安倍政権が問題ではなく、40年以上、何もしてこなかった政治家や、『北朝鮮なんて拉致をするはずないでしょ』と言ってきたメディアがあったから、ここまで安倍首相、安倍政権が苦しんでいる。安倍首相、安倍政権は動いてくださっている。何もやっていない人が政権批判をすることは卑怯(ひきょう)だと思います。拉致問題に協力して、さまざまな角度で動いてきた方ならまだ分かりますが、的を射ていない発言をするのは止めてほしいと思っている」

zakzak掲載より


『千葉真一氏』の文章から感銘を受けました!

2020-06-10 | TAZUKO多鶴子からの伝言
https://moc.style/world/interview-actor-chibashinichi-01/amp/?__twitter_impression=true

MOC(モック)
千葉真一氏「歩め、サムライの道。誇れ、日本文化。武士道精神とはなんぞや」インタビュー第1回。
千葉 真一 千葉 真一
2018年4月1日



日本映画界のアクションシーンに多大な影響を与えた俳優・千葉真一氏。映画を通して日本文化の一端を担いながら、日本人の魂とも云うべきサムライ、武士道精神に魅入られるようになったそう。誇り高い日本人として世界を股にかける俳優人生は、いつだって全力でした。その尽きることない情熱で、気力に乏しい昨今の日本を照らし出します。


――最近は若者の「〇〇離れ」という言い回しをよく耳にします。車離れ、酒離れ、政治離れに活字離れ。かつての日本のライフスタイルや文化は最近の若者からするとどうして魅力的に映らないのでしょうか?

まず日本民族とはどんなものか、というところを考えてみてください。地球上には大きく分けて3種類の人種がいますね。白色、黒色、黄色。白い連中は「自分たちが一番秀でている人種だ」と思い込んでいる。特にアジアに生きる我々有色人種の国を、白色の民族はほぼ植民地にしてきた歴史があります。

しかし、日本という国だけは植民地にはならなかった。むしろ日本は、東南アジアの植民地になった国々を助けてきたのです。たとえばミャンマー。あの国が独立するまでの間、日本は相当の力を貸したことを知っていますか(ミャンマー(旧ビルマ):英領であったが1943年にビルマ国を建国。旧日本軍は独立を支援した。その後再び英領となるが1948年にビルマ連邦として独立)。日本はそのくらい素晴らしい国でした。そしてそこには「武士道」の精神が息づいていたのです。


――武士道とはそもそもどんな精神なのでしょう。


僕は『千葉流 サムライへの道(JJサニー千葉著、ぶんか社、2010年発行)』という本を書いて、武士道精神にも触れています。文字にすると「武」の「道」。道という字で表されるものが、日本には複数あります。たとえば剣道、弓道、柔道が日本の大きな3つの武道です。

しかし1945年に終戦を迎えた折、この3つの武道が危険視されたことがあります。武道があるから日本は戦争に進んだという錯覚です。世界の人間はこの錯覚を利用し、これら武道を廃止した。誰が廃止をしたか。GHQと日本の裏切者たちが手を組んだのですよ。

日本人の本質は武士道から培われるもの。武の精神というものを日本人は理解しているはずです。そこを世界の人間は利用した。「武士道の精神がやがて戦争に繋がるのだ、他国を侵略するのだ」という考えを展開したのです。ですが、決してそうではない。

そもそもGHQは武士道とはなんぞやということをわかっていませんでしたから、「一体、武士道とは何なのだ。見せてみろ」と言ってきた。アメリカの海兵隊に凄い奴がいるから、日本の武士道とやらと闘わせてみたらどうだと、いう話になったのです。

――国の威信と誇りを賭けた闘いですね。どんな日本人がそこで立ち上がったのでしょう。

日本の笹森順造(1886-1976。日本の政治家、教育者、剣道家)という、当時の内閣の大臣がいました。笹森大臣は「これは国の一大事である。なんとしても武士道の本質を見せたい」と、意気込んだ。そこで選ばれたのが国井善弥(1894-1966。鹿島神流第十八代宗家)。笹森大臣は、この国井を代表として米海兵隊との試合へ送り出しました。

……試合の場に、屈強な海兵隊が銃剣を持って現れた。対する国井が携えていたのは、木刀のみ。対峙する2人の姿にGHQや米兵の視線が注がれるなか、国井は畏まってお辞儀をした。ええ、武士道ですから礼は基本です。GHQの連中たちは「闘いも始まっていないのに、敵に謝っているのか」と訝しんだそうです。そして闘いの火蓋は切られた。

国井が静かに立ち上がるやいなや、米兵は銃剣で激しく突いてきた。まだ構えも十分にしていなかった国井はしかし、木刀で銃剣を跳ね上げ、と同時に相手の手首を叩き落とした!米兵の手首は折れ、砕けたとも伝えられています。

GHQの人間たちは驚愕し「武士道の精神というものを初めて目の当たりにした。相手を倒すだけでなく、まるで人の心を見抜いているかのようだ」と、国井を讃えました。闘いを終えた国井は再びお辞儀をして去っていった。礼に始まり礼に終わる武士道精神を見せたのです。

それから数年後、廃止された武道が日本で復活を遂げました。かつては武道を排除しようとした連中を認めさせたということです。


――日本人という民族を考えるとき、武士道精神は大きな要素になるということでしょうか。


武士道精神の血は私たちのなかに流れているんですよ。これはもう絶対に。おじいちゃん、おばあちゃん、その先祖からずっとね。

江戸時代の武士である山本常朝(1659-1719。肥前国佐賀鍋島藩士)が武士の心得を語りました。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり。」これは、腹を据えて前に進むぞという精神です。山本常朝が語ったことをまとめた書物が『葉隠』。武士道を表した山本のこの言葉が、僕は大好きです。

また別の人物による言葉で、次のようなものが残されています。「花は桜木 人は武士」。花なら美しい桜が一番、人なら潔い武士が一番という意味です。潔く散っていく、それが武士の心なのだということ。素晴らしいですね。

こういった言葉が現代にも伝えられ、その精神が脈々と受け継がれてきたのは、日本人に武士道精神の血が流れているから。そういうところに、僕たちは日本人として誇りを持ちましょう。今の若者に伝えたいのはこういうことです。

ひとつ、みなさんにお尋ねしたいことがあります。国歌である「君が代」の歌詞の意味を知っていますか?


――君が代については近年、教育現場で賛否が問われています。歌詞の解釈まで理解をしている日本人は年々少なくなっているように見受けられます。



僕らの時代とは違いますね。僕は親父が軍人だったということもあって、日本人としての在り方を理解してきたように思います。

僕が中学生のとき、親父から「君が代の意味をわかって歌っているのか」と聞かれました。わからないと答えると、「君が代はすごい意味を持っているんだぞ。日本の心を歌っている。特に「さざれ石」は大事な言葉で、仲間のことを歌っているんだ」と教えてくれました。

さざれ石というのは漢字で記すと「細石」。文字通りに細かい石や小石のことです。そんな小さな石が何十年、何百年、何万年もかかって巌となる。それはまるで一人ひとりの日本人の心がやがて一つになっていく様子を指しているかのよう。また、巌に苔が生えるまでの長い年月が経とうとも、この心は同じ。友よ、死ぬまで限りなく、我々日本人は同じ信念を抱いている。その信念を抱いて生きていこう。

……君が代に込められた想いとはそういう意味なのだと、僕の親父は言いました。そして僕は日本人でよかったと感じ入り、日本人としての誇りを持つようになったのです。武士でありたい、サムライでありたいと強く願うようにもなりました。

しかしながら戦後から現在に至り、日本人というのはどこかに、「自虐観念」とも言うべき感覚を持つようになりました。自分の国の良い部分を過小評価してしまう。そういった感覚をどうも拭い去れない。そのため、日本人としての自信や誇りを持てないでいる。そんな人が増えているのではないでしょうか。

――すると日本に対して魅力を感じない若者は、言い換えれば自虐的な若者なのでしょうか。

今の若者は日本人というものを理解していませんね。僕は下村博文氏が文部科学大臣を務めていた頃、下村氏のパーティに参加したことがありました。そこでこんな質問をしたのです。「あなたは教育者として文部科学大臣として、何をやるべきだと考えていますか?」続けて、お願いをしました。「これからの日本を昔のような素晴らしい日本にしてほしい。そのためには、子どもたちに武士道を伝えなければいけない。それはつまり歴史を教えることです」僕はこの国でやるべき一番大切なことは、「子どもに歴史を教えること」「日本語を教えること」この2つが最も大切だと考えています。

まず歴史を教えましょう。日本の文化がどのように育まれてきたか、武士道という素晴らしい精神を身に付けた日本人はどんな人々であったか、彼らはどのようにして時代を生きてきたか、いかにして日本人としての誇りを抱くようになったか。

こういった歴史を学ぶことはとても大事です。なぜなら人は誇りを持つことによって、一生懸命に物事に取り組み、夢や目的意識が芽生えてくるからです。そして夢に向かって走ろうとする、目標に近づくためにどうすればいいかを自分の頭で考えて行動するようになる!

――歴史を学ぶといっても、受験や高給取りになるための勉強の一環としてではなく、自分自身の人生を強くするための学びですね。

僕はそう信じていますし、昔も今もそういう風に生きています。しかし、今の若者がそのように考えるのは一筋縄ではいかないのでしょう。世の中が変わりましたから。身近なところにいろいろなモノが溢れすぎていて、苦労しなくてもなんでも手に入る。ここで若者を責めるつもりはありません。そんな世の中を作ったのは、我々大人です。

自虐観念という言葉を用いましたが、そういった感覚はどのようにして生まれたか。このこともひとつの歴史ですね。戦後にGHQが日本の歴史教育に手を入れました。間違った教育本や歴史本を作り、子どもたちに教育を施した結果、若者が日本をきちんと理解しなくなったのです。

式典で国歌を斉唱しない、天皇制の意義を知らない。そういう教育が主流になるにつれ、日本人の在りようがが段々と変わってしまっているのが事実です。みなさん、このまま進んでいくのですか?いいえ、元に戻すべきでしょう。本来の日本人はいかに素晴らしいか、それを知らない日本人が増えていますよ。

かつてフランスの大使が「絶対に滅んでほしくない民族は?」と聞かれたとき、「日本に決まっているじゃないか」と即答したそうです。それぐらい日本の価値は認められていたのに、今はどうでしょう。国内外における日本への評価が変わってきています。世界で一番素晴らしい民族でありうるのに、自らの民族性への認識が抜け落ちているのはとても寂しいことです。

――自国に対しての視線が甘すぎるのも問題ですが、今の日本人はむしろ自虐が過ぎるのかもしれません。これからの時代、どういったことが転換となるのでしょう。

日本人の民族性を再認識させられたことがありました。それは3.11東日本大震災であり、被災者の方々です。あの大きな地震が東北を襲った際、世界中が日本のことを危ぶんだ。こんな災害に見舞われた日本はきっと沈没するだろう……。カメラが世界中からやってきて、山のような瓦礫を撮影しに来ましたね。日本の危機を捉えるために彼らはやって来たのです。

しかし実際はどうであったか。カメラが吸い寄せられたのは瓦礫ではなく、必死に生きる被災者の姿でした。彼らの行動は、レンズを通して世界中の人々に「この民族はいったい何者なのだ」という衝撃を与えました。

蠢く津波はあらゆるものを押し流しました。大混乱ですし、極限状態だったでしょう。しかしあるとき、何億円もの金銭の入った金庫が流されてきた。すると被災者のみなさんはその金庫をきちんと警察に届けたのです。また水の配給があれば、きちんと並び順番を待ちます。他者を慮り、他者に譲る気持ちがそこにあったのです。

あの素晴らしい人々……。必死になりながらも他者を思いやる姿が全世界に向けて映し出されたとき、どんな影響が生まれたでしょう。ある人は「やっぱり日本人は素晴らしい民族なんだ」と再認識し、またある人は「こんなに素晴らしい民族がいたのか」と驚きを感じました。

――あれほど過酷な状況下でも、被災者は無人になったコンビニでペットボトルの代金150円をきちんと置いていったという話があります。いかなるときも礼節を忘れない武士道の精神のひとつのあらわれでしょうか。

その150円だってちっぽけなことではありません。本当に素晴らしい!被災者の方々は本当に大変だった!今だってそうです、辛い状況にいる被災者は少なくはないでしょう。しかし同時に、本来の日本人の在り方を見せてくれたことに、私は心から感謝しています。よくぞ!よくぞ日本の心を体現してくれた。あの危機的状況の最中にあったにも関わらず……。素晴らしいことです。

日本人が自らの民族性のなんたるかを失いかけているなか、それを再認識させてくれたのは彼ら被災者でしょう。礼に始まり礼に終わる。それこそが日本人の心であり、かつての教育ではそういった振る舞いを子どもたちに教えていたのですよ。僕たちは被災者のみなさんに感謝し、しっかりと援助し保護すべきです。

自衛隊はどうだったでしょう。ひたすら必死になって働いていましたね。ろくに睡眠を取らずに行方不明の子どもたちを探していました。そんななか、一人の少女が一通の手紙を持ってきたそうです。手紙を開くと、『自衛隊のおじちゃん、ごくろうさまです。私たちを助けてください。どうか日本を守ってください』と書かれていた。小学生の女の子ですよ。真っ黒に汚れた小さな手から、それを受け取った自衛隊は、みんな涙した。「子どもたちを探そう。きっと見つけ出すんだ」と声を挙げ、立ち上がったそうです。

――東日本大震災は大きな衝撃を日本に与えましたが、世界はそういった目線で日本を見ていたのですね。

今、世界からたくさんの人たちが来日しています。日本を見に来た、日本人に会いに来たと言ってくれている。四年前、安倍総理が来日旅行者を800万人から1千万人に増やすことを目指しました。そして今、どのくらいになったと思いますか?3000万人です。

これほどの人数の人がなぜ日本を訪れているかというと、日本が素晴らしいからです。会ってみたいと思わせるほどの魅力が日本人にあるからです。日本人の生活をこの目で見たい、同じ釜の飯を食べてみたいと思わせるだけの魅力がね。3.11はそういった影響力の発端です。被災者のひたむきに生きる姿に、日本人ならではの本来の姿が息づいていたからでしょう。日本は今、見直され始めている。これをみんな発信するべきです。そして僕はそんな映画を撮りたいと考えています。

それと自衛隊だって、素晴らしい。日本の誇りですよ。今の教育は6・3・3制ですが、そのうち1年間は自衛隊に入隊させるというのは、いいんじゃないかな。若者よ、そこできちんとした日本の精神を勉強してこい!朝は時間通りに起きてピシッとね。今の時代はご飯を食べられて水も十分に飲めますが、若者には決まりごとの稽古を受けるという体験をしてみてほしいんです。自分の体で体験してくるというのは、大きな意義を持ちますよ。

 島国・日本で脈々と受け継がれてきた武士道精神。そこに芽吹くのは「礼」や「思いやり」、「自律」の心。素朴な、人としての根底を支える心の在り方でした。次回は俳優活動にスポットライトを当てながら、敬愛するサムライ的人物のエピソードを伺います。



写真:田形千紘 文:鈴木舞

編集・構成 MOC(モック)編集部






上記は『千葉真一氏』のMOCに掲載された文章です。
素敵な内容に感銘を受けます。



人権問題。
差別。
誹謗中傷。
度々メディア等で聞かされる昨今。

そんな中
母から聞かされた言葉を思い出します。

『貴方は武士の家系だから、人を殺した家系だ。』
そんな事を言われて傷ついたことがある。
…そんな言葉を思い出します。

私は武士の家系です。

そんな言葉も言えない近年。

人権問題や差別の言葉が
常にメディアや教育現場で叫ばれることが多くなったことと
比例しているように私は思います。

益々
武士の家系だと言えなくなった近年。

常に矛盾を感じています。



青山繁晴のエッセイより…北朝鮮拉致の大嘘報道について

2020-06-07 | TAZUKO多鶴子からの伝言

http://shiaoyama.com/essay/detail.php?id=1851

『青山繁晴』のエッセイより

拉致は大嘘だとされていたことに、もう一度、眼を向けませんか ? (終盤にひと言、大切なことを書き加えました)

▼きょう6月7日・日曜の産経新聞朝刊に、日本国民を北朝鮮が拉致した非道な事件があることを初めて世に知らしめた産経新聞の記者、阿部雅美さん ( 今は退職されているようです ) の手記というか、記事が載っています。
 新聞を購読していないひとが大変に多いですから、無料のネット版を見てみると、そこにもちゃんと全文が載っていました。だから、どなたでも読むことができます。
 ネット版の写真の方が、阿部記者のお顔が分かって、むしろ良いぐらいです。新聞紙面では、なぜか横顔しか分かりません。

▼手記では、西暦1997 ( 平成9 ) 年に阿部記者が横田滋さんと早紀江さんを訪ねた場面を経て、阿部さんはこう書いています。
「私には古傷があった。遡 ( さかのぼ ) ること17年-新米記者だった 1980 ( 昭和55 ) 年に北朝鮮による男女4組の拉致疑惑・拉致未遂事件を大々的に初報したが、産経の荒唐無稽な虚報、捏造(ねつぞう)として葬られた」

 そして阿部記者は、丁寧な確認取材の上、「20年前、13歳少女拉致 北朝鮮亡命工作員証言 新潟の失踪事件と酷似」として、1997年2月3日付朝刊1面に掲載しました。
 阿部記者は記しています。「少女Aではなく、横田めぐみ、と実名で報じた。名前公表による影響を危惧した家族の中で滋さんだけが実名派だった」

▼産経はなぜ、この手記・記事を、きょうの朝刊1面トップに掲げなかったのでしょう。
 ぼくが自宅で読んだ東京本社最終版では社会面のなかほどに、むしろひっそりと掲載されています。
( 大阪本社版などでは違うかも知れません。ぼくは都内在住ですから確認できません )
 元記者だから ?
 そんなことは関係ないでしょう。

 拉致なんて大嘘だという北朝鮮の工作が、当時の日本の社会の隅々にまで行き渡っていて、報道機関、評論家、学者、テレビのコメンテーター、そしてもちろん政治家、この人々が拉致なんて無いと広めていたからこそ、事件への取り組みが遅れに遅れた、その事実こそ大切です。
 それだけではない。
 たった今も、この事実がほとんど変わっていないことに、気づく人は少なくないでしょう。
 北朝鮮と中国、韓国による工作活動が、日本社会の隅々に依然、染み込んだままであり、それだけではなくネットの時代になって、中国に大金をもらってネットに日夜、せっせと嘘と中傷誹謗を書き込んでいる日本人を筆頭に、日本社会への工作がますます効果的に行われていることもまた、重大そのものです。

▼この産経新聞の阿部雅美記者、そして、国家公安委員長だった梶山静六さんが居なければ、今なお、横田めぐみさんをはじめ非常に多くの拉致被害者の存在すら隠されたままだったでしょう。
 梶山さんは、かつて参議院予算委員会で以下のように答弁しました。
「昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます」
 これが日本政府として拉致事件の存在を公式に発言した最初でした。

▼わたしたちは、ごく最近だけでも有本恵子さんのお母さま、有本嘉代子さんを喪い、横田めぐみさんのお父さま、横田滋さんを喪いました。
 喪失の悲しみと、抑えに抑えた怒りを、拉致被害者の全員救出の力に変えるほかありません。
 ぼく自身も今、国会議員です。責任はどこまでも重いです。
 そして、日本国民、多くのふつうに生活するみなさんが、北朝鮮、中国、韓国の卑劣な工作、なかでも最も効果を上げているネット工作にみずから打ち克ってくださいませんか。
 それがあって初めて、ぼくら日本の同胞、はらからのほんとうの連帯は成り立ちます。まさか自分は大丈夫と思っているかたでも、こゝろの深くまで工作に侵されていることが実際は少なくない、いや、深刻に多いと感じることが毎日のようにあります。
 一緒に考えましょう。
 今こそ、一緒に考えましょう。





深学舎のために有名画家『井上長三郎』の油彩画を購入しました!

2020-06-03 | お知らせ
私が自由美術協会に出品して間もない頃
『井上長三郎は美術史に残る画家』だと岡山のベテランの作家に教えられました。

まだ井上長三郎先生が自由美術協会等
様々な日本美術の世界でトップクラブで活躍されている時でした。

井上長三郎先生にはご恩があり
絵の審査で救われたこともありました。
私が出品していたある時に落選しそうになったこともありました。 

『僕はその絵は好きだよ!』
『そんな井上長三郎先生の一言で入選になったよ!』
と審査に入っていた岡山のベテランの作家から
教えて頂いたこともありました。

その当時作家たちの憧れで雲の上の存在でありました。

井上長三郎先生に京都の会合宴会で
光栄にも直ぐ隣の席でお話しさせて頂いたこともありました。
緊張三昧で何をお話ししたのか今でも思い出せません。

尊敬する画家の一人。
井上長三郎先生の絵を購入することが出来て最高に幸せです‼️







作家:井上長三郎
題名:『牛』油彩画
サイズ:0号



❮井上 長三郎(いのうえ ちょうざぶろう❯
1906年11月3日-1995年11月17日)は、日本の洋画家。

1931年、第1回独立美術協会展で同協会賞。
1953年から1956年にかけて、日本美術会の委員長を務める。

【経歴編集】
1906年11月3日神戸市に生まれる。2歳で両親に連れられ、大連に渡る。
1924年、帰国して太平洋画会研究所に通う。鶴岡政男、靉光と出会う。
二科展、独立美術協会展などに出品。
1929年、鶴岡政男らと太平洋画会研究所でストライキ。
1935年、独立美術協会会員となる。
1938年、フランスに渡る。
1940年、美術文化協会に参加。
1943年、鶴岡政男、靉光、松本竣介、麻生三郎、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明と新人画会を結成。
    同年5月の美術文化協会第4回展に出品した「埋葬」と「騾」に続いて、9月、東京府美術館
    (現東京都美術館)で開催された「国民総力決戦美術展」に「漂流」を出品するも、
    これらは「暗く」「厭戦的」としてすべて撤収される。
1947年、自由美術家協会会員となる。
1956年6月、日本美術会の文化使節としてソ連に渡る。
1972年、第25回日本アンデパンダン展の実行委員長を務める。