
「癒されて生きる」(岩波現代文庫)に「自我の超越」という章がある。やはりこの自我というものがくせものである。
柳澤さんは書く。
私たちの苦しみは、すべて執着心に原因がある。
執着心は、この世界を自己と対象物にわけて認識する、二元的認識の結果生じるものである。 本来、この世のなかのものは一様に存在するだけである。
そこに自己と非自己という判断を加えるのは、私たちの脳の神経回路である。 二元的認識によって生み出されたものである。
このようにして、私たちはものを所有するという欲が生まれた。
さらに、未来を予見するという能力によって、この欲は膨れ上がった。
私たちの所有欲はかぎりなく増大し、ものへの執着は深まる一方である。
ものへの執着は自己中心性の所産であるが、所有欲がさらに自己中心性を膨張させるというような悪循環を起こさせる。
釈迦は、すべての存在を否定して、いっさいのものを相互の関係として捉えた。
この世界は主客が一体となっていて実体がない。
その唯一全一性を私たちは実感として直感的に把握しなければならない。
現象は、実体がないことにおいて、すなわち、あらゆるものと関係し合うことによってはじめて現象として成立しているのである。
このように、物質的存在はたがいに関係し合いながら変化しているのであるから、現象としてはあっても、それ自らを実体として捉えることはできない。
したがって、現実には何もないことになり、この状態を『空』という。
このようにして釈迦は、存在を抽象化した。
人は、もはや自分のものを何らもたないというような境地に至るまでは、どこまでも自分を棄てる練習をしつづけなければならぬ。
さらにまた書く。
自己と対象を区別して認識する思考回路が存在しなければ、私たちは食物を食べることもできないであろう。
自己意識は生存に不可欠なものである。
ところが、人間は、この自己意識を軸にして、欲望をかぎりなくふくまらせていく。
そして、この欲によって、自分の存在を苦しいものにしていくのである。
人間は欲を捨てることはできるが、自己意識までは捨てることができない。
ここに人間の限界がある。
すべての人間が自己意識をもつということは、おそらくDNAの中に自己意識の神経回路をつくる遺伝情報が記されているのであろう。
*同上「人生のらせん階段」、207頁
狂った動物である人間(ニーチェ)と言う生物に、自己意識の放棄はできるのでしょうか。
小生は、akisroomさんの、坦々(精神は日々いろんなことがあるでしょうが)とした生き方にあこがれています。
そっと訪問し覗き見して帰っています。
いつもいつも天星さんのいろいろな事で感心
敬服を感じています。
修行が足りないので、暗い画面のものを読むのが大変です。
伊豆高原に行きたい気持ちが高まっています。必ず、行くぞお。ではまた。
今朝も3時ごろには目覚め、布団の中でゴロゴロ。新聞配達の車の音で、ハッと飛び起きてしまいました。午前5時前には事務所へ。朝風呂浴び、Wよりの差し入れのおひたし(あるのを忘れるところ。おなかをすかしていたKに差し入れすべきだった?)で朝食。数日前から冷蔵庫に鎮座するイチゴを食べる(これも忘れるところ)。ここ数日は食事自体も仕事になり、ゆっくりできなかった。昨夕より、心は平常モードか な。
今日は、上天気。明日の資料を早く仕上げようっと。
城ヶ崎海岸にあるウナギ屋さんに入ると
おもしろそうな爺様が一人、かなりのペースで飲んでいます。今日は人生訓をたれる女将さんがいませんから、爺様と相席所望。
これがなんと本人曰くですが
「自殺志願者」事情を聞くと65歳独身これから海に飛び込むとあっけらかんです!
どうやら行き先も無いらしい、それじゃ我が家で
ご一泊と無理強い、はしゃぎながらバイクにまたがり、我が家で軽く一杯、懐からは飲み残しのサントリーローヤル半分、寝床に案内ご就寝、12時にトイレに行った時は軽いいびきが聞こえておりました
朝5時、旨い刺身で爺様ご馳走ねとばかり玄関を開ける鍵がかかっていません、靴もありません!
部屋はもぬけ、昨日のウイスキーがうつろに残っています、爺様早まるなとばかり門脇灯台目指しまっしぐら、荒波を足元打ち寄せお姿見当たらず!
名も聞かず、所も不明じゃあ連絡しようがありません?