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意思による楽観のための読書日記

関ヶ原大乱、本当の勝者 日本史史料研究会、白峰旬 ****

慶長三年1598年9月秀吉の死以降、諸大名間の神経戦は続いていた。秀吉の死の直前に大老に任じられたのは東の徳川家康と西の毛利輝元、それに1599年に亡くなった大老前田利家、その後を継いだ利長、関ヶ原合戦のキッカケを作った上杉景勝、それに大老の一角であるが若輩の宇喜多秀家、それぞれの思惑が入り乱れた。秀吉の奉行として仕えてきた三成には諸大名からの人望はなかったが、秀吉に恩顧を感じる勢力は多かった。慶長五年1600年の関ヶ原の戦いはあまりに有名な合戦で、そこまでの戦いで大勢は決まったとはいえ、綱引きは大阪夏の陣まで続いたと考えてもいい。本書は、五大老、五奉行に加え、東西綱引きに大きなバランス変化をもたらした東国の武将、伊達政宗、最上義光、西国の武将大谷吉継、長宗我部盛親、黒田長政、福島正則と小早川秀秋の各視点から関ヶ原大乱を捉えている。それぞれの立場に立ってみると、通史として歴史を見る場合とは異なる気付きに溢れている。

三成と諸武将のすれ違いは朝鮮出兵で表面化していた。秀吉没後、実際に前線で戦った、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎は三成と対立した。家康は秀吉の死後すぐに天下への野望を覗かせるが、利家がそれを抑え込む。宇喜多秀家は大老の一人ではあったが、先代を11歳で継いだあとも重用されたのは秀吉の娘婿という立場だったためで、その後のお家騒動で多くの武将が宇喜多家を離れたため、戦力としては弱体化していた。小早川秀秋も秀吉の妻北政所の兄の子であり、秀吉ファミリー。朝鮮出兵での働きが悪くて所領を没収されたが、秀吉が亡くなり旧領に戻る。慶長五年時点で秀秋は19歳、秀秋を支えたのは二人の重臣、稲葉正成と平岡頼勝。東西の綱引きでは家康、三成から味方に引き入れるべく実質的な交渉相手となったのは、この二人、有名な寝返りの戦いの鍵を握ったのもこの二人だった。つまり五大老と言っても、家康、輝元、利家のバランスが重要だったのが、慶長四年利家の死が、諸武将の三成への恨みを溢れ出させ、家康の天下野望へのたがを外した。

本書の特徴は、江戸時代以降に語られた軍記物などの二次資料ではなく、関ヶ原大乱の同時代一次資料で検証しようという点。秀吉の子飼いの武将による三成襲撃事件は一次資料がない。家康が景勝討伐にでかけた先での「小山評定」、豊臣系武将たちが家康に味方し、上洛にあたっては東海道沿いの居城も提供しようという会合の存在に筆者は肯定的。これは実際、その後の東西対決に先立つ岐阜城攻防で、福島正則が岐阜の拠点を抑えた。三成が東西対決で想定したのは尾張、美濃のラインだったのが、戦いの場所が関ケ原まで西に追いやられたことに繋がる。福島正則の東軍参加が関ケ原合戦の勝負を分けたのかもしれない。小早川秀秋が寝返ったキッカケになったという家康側から参戦を促す「問鉄砲」も江戸時代の軍記物では有名だが確認できる一次資料は見当たらないという。関ヶ原の戦いは戦前の綱引きで大きな流れは決まっていた。現代的感覚と実際の違いは多分時間と距離の感覚であろう。有名な「直江状」の存在も、景勝による上洛の意思を示した糾明使への書状との内容不一致から、実在していないだろうと推察する。直江状の有無に関わらず家康は上杉攻めを行っていた。

そもそもが、大老であり三成に西軍主力に担ぎ上げられたはずの毛利輝元の心変わりがあり陣取った南宮山から動かなかった。安国寺恵瓊にそそのかされていたとする史料があるというが、広家の言い逃れのための後日作成史料といわれる。輝元は秀元、吉川広家、安国寺恵瓊などの手下に伊勢攻めなどをさせておきながら、同時に阿波の蜂須賀、伊予、豊前、豊後にも軍勢を送り込み、東西対立の混乱に乗じて領地拡大を企んでいた。一方、吉川広家は家康に寝返りを説得され、結局、関ヶ原では南宮山に陣取った毛利勢は東西両陣営の間で静観を決め込んだ。結果として、輝元は事前の領地拡大の企みを責められ、領地を大幅に減らされ、安国寺恵瓊は小西行長らとともに六条河原で処刑されるが、広家は生き残り、小さくなった毛利家で3万石の岩国藩を任される。

西国武将と東国武将の間には500km以上の距離があり、指示や連絡、問い合わせや告げ口なども手紙でやり取りされているため、東西間連絡は早くて数日、伊達や最上などの場合には15日ほどもかかるし、時には手紙自体が敵方に奪われることもある。関ヶ原の戦いは一日で終る。この一日の違いが天下分け目だったことは、歴史を学べばわかるが、手紙で勝敗を知るために武将間に時間的違いがあり、それが誤解や判断を左右することもある。それを象徴するのが、関ヶ原の戦いのあとも続いていた東北での戦い。関ヶ原大乱後も上杉、伊達、最上の戦いは続き、合戦の結果が知らされたのは9月末。三成と景勝が示し合わす暇などなかった。安国寺恵瓊や直江兼続は主君の敗戦の責任を負わされる形で、勝者、歴史家、もしくは軍記物作者が説明しやすい物語の幕引きを図ろうとしたのかもしれない。本書内容は以上。

歴史は勝者により語られるのが常である。また、先祖は立派に戦った、という言い伝えのほうが伝わりやすいのも理解できる。胸を打つ友情物語や、鉄砲を合図に打って出ることが裏切りにつながる、という話が軍記物としては読み手の心をつかむ、ということもわかる。三成を捜索する落ち武者狩りでは、三成の顔を知っているかどうかが重要だったので、幼馴染が探索役となる。受け取った手紙の真贋は筆跡と花押、それに使者の口上だった。各武将が重視したのは、所領安堵もさることながら、後日卑怯者という汚名を着せられないことだった。歴史を学んだ読者は結果を知っているが、現場にいた武将たちは結果を知らずに判断を下している。こうした歴史分析からは多くの気づきがある。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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