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意思による楽観のための読書日記

経済で謎を解く 関ヶ原の戦い 武田知弘 ****

本書でいう戦国大名の「経済」とは土地所有のあり方を指している。奈良時代の律令制度で全国の土地所有は国有が建前となるが、奈良時代に荘園化して、地方豪族と中央の寺社や摂関家、そしてその後は将軍家が実質的な経済利益者となる。戦国時代には、その土地所有を巡り武力を背景とした武士による土地所有が進み、戦国とは土地所有を巡る争いとなる。そしてその流れには限界があった。本書ではそれを「覇者のジレンマ」と呼ぶ。戦国時代の覇者は、家臣たちへの戦い勝利への褒美として土地を領有する権利を与えることで戦いを進めていったが、土地は有限であり、覇者は土地の不足に悩む、というジレンマに陥るというモノ。信長はそのジレンマを国替え、転封、という形で変えようとしていた。

信長は家臣の柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、佐々成政などほとんどの家臣に何回かの国替えを命じた。国替えには各武将たちの家臣団も同行するので、各地の土豪たちも先祖から受け継いできた土地を離れることになるため強い抵抗感があったが、信長には逆らえなかった。これはそれまでの武家の常識を破るものだった。信長家臣のトップは明智光秀、信長にも光秀に国替えを命じることにためらいがあったという。しかし、毛利攻めの際、攻め取った出雲、石見への国替えを命じられていたことが本能寺の変の原因だ、というのが筆者の指摘。

秀吉の時代には、土地不足がより深刻化する。実際、250万石を領有することになる家康に対し、秀吉の領有地は220万石、土地の椀飯振舞をすることで天下を取ったことになる。その後の秀吉の策は、①金品を褒美として与える。②官位を与える。③朝鮮出兵、だった。全国の金山、銀山を保有していた秀吉は金銀により家臣への褒賞とした。信長が茶器を家臣たちに与えたのに対し、秀吉は官位を与えた。秀吉時代には公卿46名、そのうち武家が12名で、各時代の中でも抜きんでて多い。関白になった秀吉がなりたければ成れたであろう征夷大将軍にならなかったのは、本来は東日本の軍事統括者を意味する征夷大将軍よりも、朝廷で官位を与えられるトップの地位である関白である必要があったから、というのが本書の指摘。土地問題解決策が関白の地位だった。そして朝鮮出兵は、土地の切り取りにより覇者のジレンマを解決できる妙案のはずだったが、結果はかえって豊臣家臣団の分裂を招いた。

秀吉に尾張三河を国替えされ関東を与えられた家康は小田原でも鎌倉でもない江戸を居城場所に決めた。秀吉の推奨があったというが、結果としてこれが成功した。小田原攻めで籠城した中には、当時の関八州の武将たちのほとんどが含まれていたため、家康は無抵抗で関八州を治めることができた。250万石を領有することになった家康には、覇者のジレンマはなかったはず。しかし関ヶ原の戦い時点での西軍と東軍の経済格差は歴然で、西軍が経済力、つまり土地所有量、そして堺、博多を抑えていた石田三成勢の勢力が東軍を圧倒していた。しかし兵力動員力は事前の調略により東軍が有利。硝石や鉄砲の弾の鉛はほとんどを輸入に頼っていたため、家康の問題は戦いの長期化がもたらす状況の不利であり、一気に決着をつける必要があったという。

高地に布陣したのが西軍、低地で迎え討つ形となったのが東軍、戦いとしては西軍有利と見えたが、小早川秀秋の裏切りで崩れた西軍の陣形は、有利だったはずの後背山地が逃げ場をなくすことになり、東軍が押し勝つ形となる。小早川秀秋は秀吉に筑前・筑後からの国替えを強制され不満に思っていた。秀吉は、博多のある筑前を直轄領として石田三成に統括させることで、貿易を牛耳っていたが、秀吉の死後、家康は筑前・筑後を小早川秀秋に返していた。これは石田勢への経済的な負のインパクトとなり、小早川秀秋には恩を売る形となる。関ヶ原の伏線はここにも張られていた。関ヶ原の戦いで獲得した630万石の領地は家康の管理下となり、ここでも家康は覇者のジレンマに陥ることなく江戸時代を迎えることになる。本書内容は以上。

本能寺の変、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いにおける疑問を経済、土地所有から考察してみたのが本書、説得力がある。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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