おんな城主「直虎」として大河ドラマにも取り上げられたのが井伊直虎。同時代には、何人かのおんな城主がいた。一人は岩村城主遠山景任の妻で信長の叔母、もうひとりは赤松政則の妻洞松院尼、さらに今川寿桂尼は京都の公家中御門宣胤の娘で今川氏親に嫁いだ。氏親の死後落飾した後の名前が寿桂尼。それまでの名前も生年もわかっていない。このようにこの時代には男子の跡継ぎがいなくなった際に女子がしばらく跡継ぎを務める事例があり、今川領の遠江において女地頭として家督を継いでいたのが井伊直虎である。
戦国時代の井伊氏は遠江守護となった斯波氏に臣従する浜名湖近辺の地方領主の一つだった。今川氏に攻め込められた井伊氏は1513年屈服させられ、その後今川氏に臣従した。井伊直平の娘は今川義元の側室となり、その後関口親永の妻となる、のちの家康の妻となる築山殿の両親である。しかし井伊家家老職にあった小野和泉守の讒言により直平の息子たち直満、直義兄弟は今川義元に殺害された。小野和泉守は直満と不仲だったとされ、直平のもう一人の息子直盛が直満の息子である亀之丞を養子とすることにも異論を唱えた。今川義元から目をつけられたことになった井伊家としては、この亀之丞を守るため出家させることで守ろうとした。この直盛のひとりっ子が後の直虎となる女子だった。この女子を亀之丞の嫁とすることで、直盛は亀之丞を養子とする予定だったため、この女子も出家させた。娘は出家して尼になりたいというが、受け入れた南渓和尚は彼女を次郎法師と名付けた。跡継ぎが途絶える可能性があった井伊家の跡継ぎ候補として隠し玉とする意図がこの時点からあったのかもしれない。
その後、亀之丞は還俗して直盛の養子となり、井伊一族である奥山朝利の娘を妻に迎え、その直親の息子虎松が後の家康の家臣となる1541年生の直政である。義元は甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と三者で甲相駿三国同盟を締結、尾張への進出を目論んでいたため、先鋒を任せたい井伊氏の養子によるお家継承を許したと考えられる。しかし義元は桶狭間合戦で信長に討ち取られてしまう。その戦いで井伊直盛も討ち死に、直親も再び小野但馬守の讒言により誅殺されてしまい、井伊氏は存亡の危機を迎えた。ここで次郎法師の出家先の僧侶南渓和尚が次郎法師を井伊氏の家督にすることを提案。1565年9月におんな城主井伊直虎が誕生する。
直虎は井伊谷の地頭として城主となるが、その地での徳政令の扱いを巡って今川氏と対立。しかしその今川氏も武田信玄、徳川家康に駿河と遠江を切り取られて氏真は敗北。井伊谷の支配者は武田氏に移行する。直虎は地頭の地位を剥奪され、出家していた龍潭寺に尼として逼塞していた。龍潭寺で直親の13回忌が行われた1574年、虎松が井伊谷に戻ってきた。井伊家復興を目論んでいた直虎は、15歳になっていた虎松を家康に仕官させる手配を整え成功する。井伊直政である。その後の直政の出世活躍は有名、次郎法師となり直虎となり、再度出家していた次郎法師は井伊家の発展に大いに寄与したことになる
。本書内容は以上。