女装するのが好きな男性、という筆者がそのカテゴリーを追求した一冊。性別と性指向には明確な境界線がなく、グラデーション的に様々な嗜好と傾向を持つ人達が世の中に入るということ、そしてその事実を理解してほしいというのが本書。そのために、日本史における女装の歴史を振り返り、西洋キリスト教では異端として扱われる同性嗜好、異性装などが、日本や東洋では歴史的に受け入れられてきたことを紹介している。
古代から顧みると、建国の英雄ヤマトタケルは熊襲征討では女装して熊襲健兄弟を殺害。女装による相手の油断を狙った、巫女であったヤマトヒメの衣装を借りて望んだ計画的殺害だった。男性が女装することにより霊的な力を獲得するという考え方が古代にはあったということ。
女装の巫人のような双性的な人が神と人との仲介をする例は世界にも多く存在し、日本の南西諸島の女装ユタ、インドのヒジュラ、アメリカ先住民のベルダーシュ、タヒチ島のマフ、朝鮮半島の女装のシャーマン(男巫)などが、性別越境者や半陰陽者に神性を見る例である。
日本の中世には持者(じしゃ)が女装巫人として「職人歌合絵巻」に書き残され、御所や神社における神聖な儀式には女装の稚児が登場している。貴族でも武士でも一定年齢で元服や裳着をするのが通例だが、一部の人達はその年令を過ぎても元服・裳着をせず、童(わらわ)として無冠のまま過ごしていた例がある。貴族や僧侶の身の回りの面倒を見る雑色のなかには童として18歳程度まで過ごす「稚児」もいた。中世の芸能分野では、白拍子舞曲で踊る女性の中には女装した稚児も混じっている。逆に男装した女性もいて、いずれも白拍子舞と呼ばれた。いずれも烏帽子を被らず束髪で描かれていて、わざわざ異性装をすることで非日常感を演出し神からの使いが舞い踊る様を演じていたと言える。
武家にも愛された能では、猿楽、田楽、稚児の延年などを起源としていずれにも異性装の要素を持っていた。近世のはじめまで京都で流行した風流踊りでは男性による女装者が白帷子、腰巻き、白帽子で踊っていた。こうした女装踊りが、阿国歌舞伎、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎に受け継がれた。巫女出身の阿国による歌舞伎踊りは一世を風靡、それを真似た遊女歌舞伎が風紀を乱すことで禁止され、若衆歌舞伎に変化。そしてそれも男娼による歌舞とみなされ禁止。月代を剃った野郎姿の歌舞伎へと変遷した。しかし阿国歌舞伎では男装女性と女装男性が入り混じり演じられていたとされ、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎も同様男性・女性の混成歌舞伎だったという。それらの演劇を熱心に見ていたのは若い女性が多くいて、その中にふらちな男性客もいたため、その部分が禁止されるに至った原因となる。つまり若い観客が入れあげていたのは、異性装の演者への憧憬だった。これが江戸時代後期以降に、男性と男性による女形とによる演劇へと進化していった。
こうした演芸とは別に、しかし近接して存在したのが陰間による性サービスであり、両者は女形トップスターへの予備軍が生活のために陰間サービスを生活の糧とする必要性があり、また需要もそれなりにあったから存在し続けたと言える。それが一転したのが明治維新で、異性装、陰間、同性愛的振る舞いなどすべてが近代化、西欧文明の受容のため一斉に禁止され、愛好家やサービスの世界も地下化した。抑圧の時代は太平洋戦争終戦まで続いたが、占領軍がいなくなると、再び地上へと現れ始める。
筆者によれば、男性による男性を対象とする嗜好と、男性として女装を嗜好することは別の話である。そして女装男性を女性と見立てて嗜好する男性も一定数いて、有名な新宿二丁目は前者であり、女装者によるサービスを提供する店はそれらと一線を画する。
アジアでは日本とタイが植民地化された歴史がないため、その二カ国での女装者、ニューハーフへの受容度が高いという。従来からのキリスト教的価値観では、こうした異性装やニューハーフは受け入れられないと考える人が多いためだと。それでも人権を守る、多様性の受容という観点からLGBTの受容は西欧諸国でも広がりを見せるのは1970年代以降。身体的女性化技術や整形、成形技術進歩により、こうした異性装のテクニックが向上して、より受け入れられやすくなること願っているという。本書内容は以上。