「光る君へ」を視聴しながらの読書は、登場人物の顔が思い浮かんできて実に生き生きと情景を思い浮かべられる。枕草子は清少納言が定子中宮の女房として出仕して、定子が一条天皇との子を懐妊し出産する頃から始まり、定子が里帰り出産、彰子入内、長徳の変、定子出家と還俗、内親王出産後の死などを女房として経験する間に執筆されたという。内容的には随筆といわれるが、日記でもあり、人物評論的な部分や、世の中への考え方を述べるなど多岐にわたる。
記述された中で印象的なエピソードを紹介する。定子が出産のために平生昌邸に赴いて侍者たちも一緒に家に入る場面で、定子はちゃんとした四本柱の門構え玄関から入る。侍者たちは北の門から入るが、そちらは門が小さくて、車のままでは通過できないために一旦降りて歩くために、雨が降ってぬかるんだ道に筵を敷いて降りることになってしまい、その様子を殿上人も地下人たちも見ているので、恥ずかしくて腹立たしいと。定子にそのことを報告すると、平生昌は中国の故事を引いて言い訳しているのが、それはまたそれで面白いと。父の道隆が死んだあとは中関白家が没落気味で、出産するにも屋敷を提供してくれる公家が少なかった中でも、明るく振る舞っている、と言う健気なさまを描いている。
清少納言の父は清原元輔、曽祖父は清原深養父、いずれも百人一首にも取り上げられた和歌の読み手であり、その事を知る中宮やその兄弟たち(伊周と隆家)は庚申待の夜に清少納言に和歌を詠ませようとする。下の句をまず詠んで、上の句をそれに合わせて詠んでほしいとか、お題を与えて詠んでほしいとか。定子や伊周と隆家も、漢詩や和歌にも秀でていることをさり気なく記して、先の関白(道隆)が死んだあとでも、気品を失わず楽しげに過ごしていることを、なんとか記録しておきたい、という清少納言の気持ちである。
百人一首に取り上げられた清少納言の和歌「夜をこめて鳥の空音にはかるとも世に逢坂の関は許さじ」が詠まれた場面。藤原行成が来ていて、深夜まで清少納言と語り明かし、帰宅後に「鶏が鳴くまで話をしたかった」と手紙をよこした。それへの清少納言の返答「孟嘗君が鳥の鳴くモノマネをして函谷関の門を開けさせた故事のことでしょうか」。行成の返答は「私の関は逢坂の関」と返答。この答えへの清少納言の答えが百人一首の歌。函谷関の関守は騙せても、私は騙されませんよと。それへの行成の返答「逢坂は人超えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか」逢坂の関は結構簡単に越えられるものですよ。こうしたやりとりは、手紙を運んだ僧都や中宮、そしてその他の客人にも見られることを前提としており、百人一首にも取り上げられるほどに。真面目な行成と清少納言は男女の関係ではなかったはず。
その他、すさまじきもの(不調和で興ざめ)は昼間吠える犬、春まで残る網代、4月の梅の着物。にくきもの(にくらしい)、別用がある時に来る長話の客、寝るときの蚊、人の話の先回りをするひと。心ときめきするもの、雀の子を飼うこと、頭を洗い香が良く沁みている着物を着ているとき。ありがたきもの、舅に褒められる婿、姑に可愛がられる嫁、主人の悪口を言わない従者。
さまざまな内容が含まれる枕草子であるが、文章が短いものが多くて古文初心者でも読みやすい。源氏物語は、そのストーリーや登場人物の関係などを思い浮かべる必要があるが、枕草子は、登場人物は中関白家とその関係者に限られていて、エピソードごとに分かれているので清少納言の書いた意図も理解もしやすい。故事や古今集などの知識を自慢するような書きっぷりも見受けられるが、中流国司の娘である自分も上流階級出身が多い女房の仲間入りして、定子サロンの素晴らしさを表現する一つの方法と受け取るべきか。本書内容は以上。