16世紀後半、日本に35年も滞在したルイス・フロイスは日本の女性に関して次のように記述している。「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わずに結婚もできる。ヨーロッパでは妻の離別は不名誉であるが、日本では意のままにいつでも離別できる。妻はそのことによって名誉も失わないしまた結婚もできる。日本ではしばしば妻が夫を離別する。娘たちは親や夫に断りもなく幾日でも一人で好きなところに出かける。比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の街になっている」これを網野善彦はある程度真実であったと肯定する。遊女、傀儡、白拍子について特異な芸能集団ではなく日本社会における一般的な女性のあり方の中で捉える必要があるとしている。一人旅をする女性は壷装束をし、市女笠を深くかぶって顔を隠し、物詣をすることには巫女の姿に似た服装をしていた場合も見られる。危険回避とともに、巫女、遊女、白拍子、傀儡と深いつながりがあったことは柳田国男や中山太郎も指摘しているという。山城の桂女、大原女などの女商人などは遊女や巫女などと未分化な部分があったという指摘である。
荒蕪地、免税地であるに居住するが被差別民の存在形態であったとしたのは林屋辰三郎。は本所にたいする言葉、民をすぐに隷属民とすることに疑問も多いという。時代によってその概念は変化したというのが筆者の指摘である。
犬神人、は奈良、京都、鎌倉の寺社を始め諸国の一宮、国分寺などに属し、京都では検非違使の統括を受けていた。身分としては職人であり、百姓ー平民とは異なる階層であった。清水坂と祇園社犬神人が重なる集団であり、石清水八幡宮、越前の気比神社美濃の南宮大社にも犬神人はいたという。
船の名前に「丸」をつけるのは、人がその生命を全面的に託する、境界的な意味を持つものであった。人の幼名に丸を付けるのは子どもが境界的、呪術的意味を持っていたと考えられるが、犬神人や、看守・放免なども貞末丸、彦廉丸、吉光丸などという童名を名乗っていたことにも関係するという。
網野善彦の中世史のなかで被差別民のおおもとに迫った著作集である。中世のと遊女 (講談社学術文庫)
