直木賞作家である筆者は元文藝春秋編集者。歴史の逸話は豊富にお持ちである。タイトルになったのは、信長は宿泊する場所など他にいくらでもありそうなものなのに、その夜は京都の本能寺に泊まっていた理由を問うている。筆者が解説する理由は、信長と宗教との関係。比叡山や一向一揆などに手を焼いた信長は、当時京の町で勢力を伸ばしていた法華宗に警戒感を持っていた。信長が仕掛けた可能性があるとするのが「安土宗論」、浄土宗の僧侶と法華宗の僧侶たちが問答を繰り返し優劣を決める論争である。これを記述したのがフロイスの「日本史」。浄土宗側が「釈迦が44年間説いた妙と称する文字、漢字の意味するところや如何」と法華宗側に問うたが答えがない。浄土宗側は「いかなる人知をもってしても達することができず計り知れないもの」と述べ、法華宗側からの返答がなかったため、宗論は浄土宗側の勝利とされた。この結果、京の町では法華宗がバカにされる事件が相次ぎ、信長はこの始末を法華宗側の不届きとして、法華宗の3人の宗徒を斬首、法華宗の主要13カ寺には今後の宗論を禁止、法華の上人衆は牢人する、という起請文を血判署名入りで出させた。
そこで、信長は、自分が建てたばかりの二条新御所を正親町天皇の東宮誠仁親王に譲り、自分の御座所はその隣の妙覚寺に移した。妙覚寺は法華宗の巨刹であり、大寺院であるため兵も多数宿泊可能であり、城壁代わりの土塀にも囲まれ、水の便も良かったためであった。法華宗の宗徒や僧侶たちは、安土宗論の後は何年かの間、京の町では居づらくなり、法華宗の寺院は閑古鳥が鳴いていたという。そこで法華宗の本山であった本能寺は、妙覚寺よりもさらに規模が大きく、伽藍と三十余坊の塔頭を構える大寺院。その年からは宿泊場所として使っており、その年二回目の宿泊が「本能寺の変」その時だった。
その他のエピソード、戦国時代からは、超強気の山中鹿介と超弱気の小早川隆景、加藤清正の虎退治の真実、長州毛利家の幕府に対する「食い物の恨み」、戊辰戦争からは新選組の福田広が武田耕雲斎と名乗った理由、将軍慶喜を面罵した男、明治時代からは渋沢栄一からみた西郷と大久保、武士道からは、武士が和歌を読む理由、甲州武田家ゆかりの姫君、などなど。歴史エッセイ54話が紹介されていて読み応えがある。