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意思による楽観のための読書日記

徳川某重大事件 殿様たちの修羅場 徳川宗英 ****

徳川家にまつわる歴史的エピソード集、文章が巧みなので読みやすく記憶にも残る。あわせて、筆者自身が徳川田安家の宗家、歴史的出来事が自分につながる、そのことをある意味自分事として捉えていて、歴史と現在のつながりを意識しているため、読者にも身近に感じられることが読みやすさにつながっている。読者にも身近に考えられる明治維新以降の出来事を第一章に配置して、第二章は家康関連、第三章が徳川時代の幕府と朝廷の関係、第四章が将軍家関連のおもしろエピソード、第五章が一揆やスキャンダルなど事件となっている。

戊辰戦争では朝敵となったはずの徳川家だが維新後は華族の一員になっている。徳川八家の宗家、慶喜家は公爵、御三家は侯爵、三卿は伯爵、大正時代には水戸家が「大日本史」編纂が評価され公爵に叙された。天皇家はこうした徳川家との繋がりを重要視した。昭和天皇の弟君は徳川家系列の后を迎えている。秩父宮は松平容保の孫娘、高松宮は慶喜の孫娘、三笠宮は慶喜の娘の嫁ぎ先の娘であり、大正天皇のお后であった貞明皇后のアレンジだったという。

上杉討伐に会津に向かった家康が伏見城に残した鳥居元忠に従った茶師がいた、上林竹庵である。上林家は丹波の土豪、1558年以降上林久重が宇治に移住、茶業を営み4人の息子は宇治茶生産、流通に重要な役割を果たす。竹庵は久重の4男で、家康に仕官、三河で100石を与えられ茶業を三河に持ち込んだ。伏見城で竹庵は討ち死に、その後江戸幕府における茶の調達は上林家に独占的に与えられた。茶壺道中は1633年から幕末まで続けられる。お茶壺道中は勅使行列と同様、街道民は息を潜めて見守ることになり、「ずいずいずっころばし」のわらべうたとして残る。

1620年、秀忠の娘和子が後水尾天皇に入内、化粧料は1万石で入内は家康の遺志だった。従三位に叙せられた和子は濁音を嫌う宮中の習慣に従い「まさこ」と改名した。和子は二人の親王、四人の内親王を授かる。夫の後水尾天皇は幕府に抵抗をしめし紫衣事件を起こして退位、夭逝していた二人の親王に代わり、長女が女帝明正天皇として践祚した。天皇の外祖父となった徳川家の地位は朝廷内でも上がり、その後の将軍(家光以降)の正室は宮家や公家から迎えられる。

家光の弟は忠長で、父の秀忠や母の於江与は利発な忠長を可愛がるが、家康は揉め事を防ぐため長子を継嗣とすることを大方針とした。忠長は駿河、遠江、甲斐の55万石大名となり駿河大納言と呼ばれる大大名となる。増長した忠長には粗暴な振る舞いが増え、於江与が亡くなると家光は忠長に蟄居を命じ、秀忠の死去を契機に忠長の所領を没収、忠長は配所の高崎で自害した。家光は忠長を可愛がった秀忠を恨んでいたと言われる。歴代将軍の墓は石作りなのに秀忠だけは木製なのは、そんな理由があるのかもしれない。

宇都宮釣天井事件、尾張義直名古屋籠城事件、松平定政出家事件、元禄赤穂事件、尾張宗春隠居謹慎事件、慶安の変、富士山大噴火、江島生島事件、天一坊事件などが紹介される。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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