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意思による楽観のための読書日記

ヤマト王朝は海を越えてやって来た 村石利夫 ****

本書では、日本書紀の編纂者が創作した古代日本史の中では、崇神朝以降の大王家の歴史が実在しており、1-9代はそれ以降のヤマト王朝とは継続しないと主張を展開。崇神は紀元前2世紀呉・楚国7国内乱で敗走した中国大陸にける呉王朝の末裔で、大陸臨海部、朝鮮半島南部を経由して九州に到達する。九州に先住の人たちは魏志倭人伝で、末羅、奴国、邪馬台国などと記述された集団で、崇神の一団はその地を避け、瀬戸内鞆を経由して、紀州南部から大和盆地に到達した数百名の集団の長だった。崇神の一団は鉄器、稲作技術、灌漑などにより食料生産をする一団で、大和平野に先住していた、稲作民との戦いを経てそこに定着、三輪王朝となる、という主張。

その当時の日本列島には、1万年以上も先住してきた縄文系の狩猟民や山の民が分布していたが、そこに、稲作を生活機軸とする人々が、朝鮮半島新羅系・百済系や大陸南方系などからも次々と渡来してきていた。そこにあとから渡来してきたのが崇神の一団だった。崇神着到当時、大陸の勢力は、朝貢してくる諸国の一つとして、倭国を認識していたが、それが九州にあるのか近畿にあるのかは問題視していないことに着目。3世紀ころまで九州に展開していた29カ国からなる連合政権は、その後倭国大乱で、狗奴国が女王国を打ち破るが、歴史的文書には残っていない。この隼人族による狗奴国勢力が、その後どうなったのかが最大の謎であるが、大陸側にも記録がなく、3-5世紀の日本列島は欠史時代と呼ばれる。

そこで本書では、三輪王朝は自分たちこそが倭国であると主張したとする。応神から雄略に比定される倭の五王は、三輪王朝の系譜であると。日本書紀編集者たちは、「ヤマト」とは読めない倭という文字に「和」を宛て、大和と称した。倭国=日本、倭=ヤマト=大和の変化は天武朝に行われ、書紀に反映された。書紀では南朝鮮に任那があり大和政権に朝貢していたと記述があるが、事実は逆で、大和政権は大陸の政権に認められるために朝貢を継続し、その後前方後円墳となり日本列島で発展する古墳の発想と鉄器技術が朝鮮半島よりもたらされた。魏志倭人伝で「倭人」と称された一族は朝鮮半島と九州を跨がり棲息しており、そこに国境が存在したわけではない。任那と書紀に記述された地方は、崇神が列島に到達する前に暮らしていた故郷とも言える場所であり、書紀編集者たちは祖先の地と称したかったが、実際には新羅に滅ぼされた10ほどの邑落国家が存在していた。

こうした歴史事実の証拠は、歴代天皇陵とされる「塚」に発掘されないまま残っているので、宮内庁は発掘許可を出す必要がある。全国にある「大塚」は古墳の可能性があるので、古代史の事実発見のためにも決断が必要。本書内容は以上。

諸説がある古代史の謎を考えるのは、楽しい。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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