ロシア革命後、旧ソ連では農業の集団農場化が進められた。その時代、飢饉が起きた地方では農民の逃亡が相次いだ。逃亡する農民は都市に逃げ込んだが、そこにも居場所はなく、青年同盟という名の党出先機関による監視と住民同士による密告が相次いで、悲惨な運命を逃亡農民を襲った。
モモは、そうした地方農民の娘、幸せに暮らす夫婦と姉妹弟5人家族だったが、母がなくなり、集団農場化に協力しないと青年同盟に睨まれるからと渋々同意した父を恨むモモ。しかし、富農、中農、貧農と分類され、富農とされたモモの一家は青年同盟と近隣住民から迫害され、ついには父、姉が青年同盟に連れ去られる。弟と二人で生きることを強いられた10歳のモモは必死だった。
青年同盟の中にはモモを助けてくれる青年もいたが、弟は餓死してしまい、それを期にモモは村を逃亡して街に向かう。都市には、同じような逃亡農民が多くいたが、いずれも捕まり、子どもたちは孤児となった。そんな中でもなんとか生き抜こうとしたモモも、青年同盟に捕まるが、機転が利いたモモは、青年同盟の調査員として利用されることを選ぶ。
調査員としてのモモは、最初は清掃員を装い、町中で国家や党の悪口を言う人間、国家への反逆者を見つけて通報する役割を果たす。密告された人たちは、家族から引き離され強制労働に回されることをモモは知っていたが、自分が生き残るためには避けられないことと自分に言い聞かせた。
街での清掃員の次には、大学生となり学校の中での反逆者、国家転覆を企む人たちを見つける役割を命じられる。大学には多くの反体制思想を持つ人達がいたので、モモの密告は青年同盟に重宝された。ある時、モモは町中で見つけた逃亡青年が、なけなしの食料を見知らぬ女性に与えてしまうところを目撃。その青年を自宅に連れ帰り、一緒に暮らすことにした。その青年も、別れ別れになった自分の母を思い出しての行動だったことがその理由だった。
逃亡青年の言葉にも嘘があるかも知れないと最初は疑うが、真実を語る青年にそのうち心を許すようになる。青年はグラヴという名前の逃亡農民だった。二人は街の中にあるアパートで暮らし始める。しかし、モモはある日大学の先生に呼び出され、密告者であることを他の学生の前で糾弾される。この街には居られないと思い込んだモモは、グラヴとともにこの街からも逃げ出すことを決意する。
逃亡を助ける組織に二人での逃亡を依頼するが、グラヴとは別れ別れにされ、モモも逃亡途中で青年同盟に捕縛される。グラヴの行方は知れないまま、収容所送りとなるモモ。収容所にはモモと同じように逃亡した農民たちが大量に収容されていた。生き残りのためには、仲間を裏切ること、密告すること、盗みを働くこと、看守に取り入ること、つまり今まで生きるために生まれた村や逃亡先の街でやってきたことが、さらに先鋭化されて繰り返されていた。モモは逃げ出すたびにひどくなる環境の中でも、生き残るために知恵を絞る。
収容されている人びとは度々移送されるが、巨大な国ソ連では、長時間にわたる移送自体が拷問であった。そうした移送の途中にあるのが中継収容所。その先にモモを待つのはシベリア東北部、極寒の収容所であることを知らされ、中継収容所からの逃亡を計画する。信頼できそうな逃亡の仲間エリサを見つけたモモは、綿密な計画を立て、協力してくれる素振りを見せる看守を手なづけ、逃亡のための地図と食料を手に入れて、逃亡を実行する。
おびき出した看守から奪った銃と食料でエリサとモモは荒野に逃げ出すが、行き先や訪ねていくあてがあるわけではない。二人が向かう荒野には荒れ果てた村々があるだけで、そこには寒風が吹きすさんでいた。物語は以上。
WIKIPEDIAによれば以下の通り。「1928年、ソ連政府が発表した第一次五ヶ年計画の中核に、農業集団化があった。農産物の投機的売買の撲滅を促進し、農業を集団化することが目的で、この五ヶ年計画中にソビエト全土でコルホーズを組織するキャンペーンが行われた。土地を個人所有する自作農である富農は労働を義務化されていなかったが、自発的労働の名において労働に従事した。この急速な集団化に対する反対行動や騒擾により、1930年代前半に多くの事件が発生し逮捕が行われたが、開拓地などに設立されたソフホーズとともにソビエト農業の基本構造となった。」
物語の舞台は1930年から1937年の旧ソ連、ウクライナにおける集団農場と飢饉、党による粛清や収容所の記録から書かれたフィクションではあるが、実際に起きていた事実をベースにしている。ほとんど成功しなかった、とはいえ、逃亡に成功した人間が実際にいて、その人が記録した書物があるからこうした小説も書けたということ。
社会主義国の夢と現実、共産党による一党支配、独裁国家の現実、飢饉と農民、密告と監視、教科書で習う集団農場のコルホーズ、国営農場のソフホーズの理想と実際に起きていた飢饉や農民の気持ちとのギャップを読者は目の当たりにすることになる。読んでいて救いがない気もするが、モモは最後まで希望を捨ててはいない。どんなに小さくても、かなわないと思われても、自分の希望を持てることが最後まで個人に許された自由だった。