大奥が幕政に大いなる影響力を持っていたことを多くの事例で示す一冊。徳川将軍家では大奥、諸大名では奥向もしくは奥御殿、大奥ができたのは江戸城本丸の修築がほぼ完成した1606年で、秀忠が本丸に入った時。
その時の大奥支配者は秀忠の御台所於江与、信長の妹お市の方の三女である。この於江与と対立したのが秀忠長男竹千代(後の家光)の乳母となったお福、後の春日局であり、明智光秀の家臣斎藤利三の娘、家光が将軍となるころ後々までの大奥の姿が固まった。徳川家の大奥は信長と光秀の子孫により支配されることで始まったと言える。ちなみに、於江与とお福は秀忠の長男竹千代と三男国松(後の駿河大納言忠長)のどちらを次の将軍とするかで対立するが、お福が強力に働きかけたことも影響したのか、家康の判断で長男が長子単独相続を定着させるとして竹千代をお世継ぎとした。
家光が将軍となった1623年に鷹司孝子を正室に迎え、1626年に於江与が亡くなるとお福は大奥の総取締に就任した。御台所となった公家出身の孝子は幕府に権威付けをするためであり、お飾りに過ぎないことを明確にするため。その後、孝子は家光としっくりいかず物理的に引き離され中丸御殿に移され以後23年孤独な生活を送ることになっててしまう。お福は紫衣事件のときに将軍名代として朝廷に派遣された。お福は三条西大納言実条の妹となり従三位を叙されることで後水尾天皇と謁見、義満の乳母にならい春日局と称号を得た。幕府の権威付けのためと推測されるが、後水尾天皇はこの扱いに憤慨して譲位、859年ぶりとなる女性の明正天皇が誕生した。
実母と乳母の争いを見せつけられた家光は女嫌いとなり子ができない。春日局は大奥で信頼していた会津藩家老の妻であった祖心尼の孫、お振を家光に近づけ女性に心を開くようになったと言われる。お振は千代姫を出産したが3年後に死亡、次に伊勢の臨済宗の17歳になったばかりの女性住職が将軍に挨拶に訪れ、家光はその公家の娘で尼僧であった後のお万にこころをひかれる。あまりに夢中になった家光に、お万の方そっくりなお楽、そしてお玉を側室とし、お玉が産んだ子が後の綱吉となる。お万は子を産まなかったが、家光が最も愛した側室であり、その家族も引き立てられ家光の死後まで丁重に扱われ88歳の天寿を全うした。
大奥に京風文化をもたらしたのが右衛門佐、綱吉の御台所となった信子の姉で天皇の中宮房子に仕えていた典侍(ないしのすけ)常磐井。水瀬中納言の娘で宮廷随一の才媛として知られ、学芸を重んじた綱吉の求めに応じたもの。右衛門佐という局名をもらった常磐井は上臈御年寄として大奥に入り、御袋様(世継の生母)として大奥に君臨していたお伝の方を凌ぐ勢いであった。将軍付きと御台所付きの勢力争いの中、右衛門佐が推挙し側室となった清閑寺大納言の娘、さらに日野大納言の娘が側室となりお世継ぎ争いは激烈さを増したが結局綱吉は世継に恵まれなかった。
7代将軍家継の時代のお年寄り絵島が起こした絵島生島事件は、家継の生母月光院と側用人間部詮房、新井白石に対する譜代門閥の反感、そして前将軍の御台所天英院と月光院の対立が背景にあった。
11代将軍家斉には16人の側室がいて51人の子をなしたとされるが成人したのは13人。中でも寵愛されたのがお美代で、将軍に肩入れされた実家の智泉院は大繁盛した。家斉の死後、水野忠邦はお美代の父親と甥を遠島としたが大奥までは手が出せなかったという。お美代は家斉の死後、ご遺命と称するお墨付きを盾に12代家慶を隠居させ、世継の家定を13代、さらには14代将軍にまで口を挟んだという。家斉の正室広大院はこうしたお美代の専横を不快とし家慶はお美代は前田家への押し込めを命じられた。しかし、上臈御年寄となっていたお美代は前田家の援助を得て、幕末を生き抜き明治5年までの生涯を全うした。
12代家慶の信任を得た水野忠邦時代に大奥の実権を掌握したのが上臈御年寄姉小路、橋本中納言の娘で家慶の正室楽の宮喬子の輿入れに従って大奥に出仕した。姉小路は忠邦の失脚後も新たに老中となる阿部正弘と手を組んで権勢を維持し続けた。家慶の死後将軍となった家定の正室が篤姫、天璋院であるが、家定は障害を持っていた。将軍跡継ぎ候補で紀伊家の慶福と一橋家の慶喜が競うことになる。姉小路は、慶喜の父斉昭が上臈御年寄の唐橋と密通していたことを突き止め家慶に働きかけたという。しかし、井伊直弼は阿部正弘の死後慶福の将軍継嗣を進め、家茂が誕生する。このあと和宮親子内親王の家茂への降嫁があり幕末を迎える。本書内容は以上。