三原市議逮捕について、今の私の気持ちを、昨日、書かせていただきました。
その後に、本人から辞職願いが出され受理されたことを知りました。
昨日は、この件で、検索されてブログを訪問してくださった方も多かったようです。
メール、お電話、直接お会いした折に、ご意見を伺いますが、
「辞職は当然」という方がほとんどです。
見識や人格が求められる議員としては、
まずコンプライアンス、遵守すべきことが守れるかどうか、
先を見越した判断ができるかどうか、
衝動的な行動を抑えられるかどうか、
というのは必至であり、
飲酒した状態で、自ら車を運転することは、
議員として求められる資質に欠ける行為で、
「辞職は当然」というのは、もっともなことだと思います。
ただ、それでも、
失敗からの再挑戦のチャンスはあるべきで、
> 自分の中のどういう部分が、今回の失敗につながったのか、
> それを克服するために、どういう努力を始めるのか、
> そこをきっちり見極められなければ、チャンスは開かれないでしょう。
と書きました。
その気付きは、
時間を経て、冷静に見つめることで分かる場合もあるし、
今回の体験から瞬時に多くの気付きが得られる可能性もあるし、
または、あるタイミング、体験によって気付く場合もあるでしょう。
レッドマン・・・ネイティブアメリカンの文化では、
自身の罪を犯したという感覚こそが、最大の罰であるとしています。
もう7年以上前ですが(2007年3月)、
中国新聞朝刊に掲載していただいた拙文を思い出したので、
こちらへ転記しておきたいと思います。
「中国新聞を読んで」
「再生 安心社会」の第三部の連載として司法の現場からのレポートがあった。立ち直りへの変化が見られた少年の再犯、死刑容認派の増加など、連載からは、凶悪な犯罪が増えていることに対する不安な気持ちが社会全体に募っていると感じた。その不安とは、大きくまとめると、犯罪者の心理が分からないこと、そして出所した後の再犯の心配だと思う。
連載第六回の「処方せん」で、刑務所において認知療法など処遇プログラムが行われていることを知った。「受刑者同士が、性意識や生い立ち、人間関係の失敗などを自由に話し合う」ことにより、思い込みの身勝手さや認知のゆがみに気付いていくプログラムで、カナダではすでに再犯率の低下につながる効果が認められているとのこと。逆に考えると、そうした話し合いができれば、罪を犯してしまう前の段階で軌道修正できるのではないだろうか。また、そのような話し合える場が、今の社会で欠けているのだろうか。
三月七日付け朝刊一面には、京都女児殺害の被告である元塾講師への判決の記事がある。「身勝手な被害感情を募らせ」ての犯行と報じられているが、誰かと話し合えていれば、その身勝手さに気付くことができたのかもしれない。
犯した罪の内容によって刑罰が決められる現在の裁判では根本的な解決は難しいと感じる。ストレス、認知障害、コミュニケーション障害などを含め、様々な要因が犯罪の根底にある。それらの要因をどうやって取り除いていくか必要な処方を裁判で考え、その処方(プログラム)が効果をあげているか、社会復帰できるか、チェックの上で出所する、というステップが必要なのではないだろうか。
二年後に導入予定の裁判員制度だが、参加したくない人が多いようである。犯罪者を罰するための裁判でなく、更生させるための裁判になれば、前向きな議論ができ、処遇プログラムについても多くの人が知るようになり、犯罪を未然に防ぐことにもつながるのではないだろうか。
被害者遺族の無念の思いは、他者には分かり得ないものがあるだろう。しかし、新たな被害者を出さないための裁判となることを望んでいる。
本質的に同じ課題を感じるのが、教育の問題である。安倍内閣が重要課題として掲げる「教育再生」で、教育のいちばんの当事者である子どもの心が置き去りにされたまま議論が展開されていると感じる。
子どもたちに必要なのは、たくましく柔軟な心を育むことと、心の声をしっかり聴いてくれる大人の存在。くらし面の連載「羽ばたけ!子どもたち」では、思い通りにならない「自然」から、時季を待つこと、寒さに耐えることなどを、子どもたちが楽しく学び取っていく様子が、声の聞こえてきそうなほどイキイキと描かれていて楽しく読ませていただいている。同じくくらし面の「教育に効くコーチング」では、心をしっかり受け止める手法が手ほどきされている。どちらも、教育の課題として大切なことが盛り込まれていると、大きく期待している。学校選択制よりも、こうしたいちばん大事なことがどの学校でもきちんと確保されるようにしていただきたいものである。
その後に、本人から辞職願いが出され受理されたことを知りました。
昨日は、この件で、検索されてブログを訪問してくださった方も多かったようです。
メール、お電話、直接お会いした折に、ご意見を伺いますが、
「辞職は当然」という方がほとんどです。
見識や人格が求められる議員としては、
まずコンプライアンス、遵守すべきことが守れるかどうか、
先を見越した判断ができるかどうか、
衝動的な行動を抑えられるかどうか、
というのは必至であり、
飲酒した状態で、自ら車を運転することは、
議員として求められる資質に欠ける行為で、
「辞職は当然」というのは、もっともなことだと思います。
ただ、それでも、
失敗からの再挑戦のチャンスはあるべきで、
> 自分の中のどういう部分が、今回の失敗につながったのか、
> それを克服するために、どういう努力を始めるのか、
> そこをきっちり見極められなければ、チャンスは開かれないでしょう。
と書きました。
その気付きは、
時間を経て、冷静に見つめることで分かる場合もあるし、
今回の体験から瞬時に多くの気付きが得られる可能性もあるし、
または、あるタイミング、体験によって気付く場合もあるでしょう。
レッドマン・・・ネイティブアメリカンの文化では、
自身の罪を犯したという感覚こそが、最大の罰であるとしています。
もう7年以上前ですが(2007年3月)、
中国新聞朝刊に掲載していただいた拙文を思い出したので、
こちらへ転記しておきたいと思います。
「中国新聞を読んで」
「再生 安心社会」の第三部の連載として司法の現場からのレポートがあった。立ち直りへの変化が見られた少年の再犯、死刑容認派の増加など、連載からは、凶悪な犯罪が増えていることに対する不安な気持ちが社会全体に募っていると感じた。その不安とは、大きくまとめると、犯罪者の心理が分からないこと、そして出所した後の再犯の心配だと思う。
連載第六回の「処方せん」で、刑務所において認知療法など処遇プログラムが行われていることを知った。「受刑者同士が、性意識や生い立ち、人間関係の失敗などを自由に話し合う」ことにより、思い込みの身勝手さや認知のゆがみに気付いていくプログラムで、カナダではすでに再犯率の低下につながる効果が認められているとのこと。逆に考えると、そうした話し合いができれば、罪を犯してしまう前の段階で軌道修正できるのではないだろうか。また、そのような話し合える場が、今の社会で欠けているのだろうか。
三月七日付け朝刊一面には、京都女児殺害の被告である元塾講師への判決の記事がある。「身勝手な被害感情を募らせ」ての犯行と報じられているが、誰かと話し合えていれば、その身勝手さに気付くことができたのかもしれない。
犯した罪の内容によって刑罰が決められる現在の裁判では根本的な解決は難しいと感じる。ストレス、認知障害、コミュニケーション障害などを含め、様々な要因が犯罪の根底にある。それらの要因をどうやって取り除いていくか必要な処方を裁判で考え、その処方(プログラム)が効果をあげているか、社会復帰できるか、チェックの上で出所する、というステップが必要なのではないだろうか。
二年後に導入予定の裁判員制度だが、参加したくない人が多いようである。犯罪者を罰するための裁判でなく、更生させるための裁判になれば、前向きな議論ができ、処遇プログラムについても多くの人が知るようになり、犯罪を未然に防ぐことにもつながるのではないだろうか。
被害者遺族の無念の思いは、他者には分かり得ないものがあるだろう。しかし、新たな被害者を出さないための裁判となることを望んでいる。
本質的に同じ課題を感じるのが、教育の問題である。安倍内閣が重要課題として掲げる「教育再生」で、教育のいちばんの当事者である子どもの心が置き去りにされたまま議論が展開されていると感じる。
子どもたちに必要なのは、たくましく柔軟な心を育むことと、心の声をしっかり聴いてくれる大人の存在。くらし面の連載「羽ばたけ!子どもたち」では、思い通りにならない「自然」から、時季を待つこと、寒さに耐えることなどを、子どもたちが楽しく学び取っていく様子が、声の聞こえてきそうなほどイキイキと描かれていて楽しく読ませていただいている。同じくくらし面の「教育に効くコーチング」では、心をしっかり受け止める手法が手ほどきされている。どちらも、教育の課題として大切なことが盛り込まれていると、大きく期待している。学校選択制よりも、こうしたいちばん大事なことがどの学校でもきちんと確保されるようにしていただきたいものである。
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