釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

60. 『 病む母の心 おろかになりぬらし・・・』

2011-10-10 13:39:48 | 釋超空の短歌
『 病む母の心 おろかになりぬらし。
  わが名を呼べり。 幼名によび 』
***
このブログは釋超空のうたの独断的感想だから、釋超空の個人的な境遇などは私はあまり関心はないのだが、掲題のうたには個人的に少し思うところがある。

掲題のうたから察すると釋超空の母は、いわゆる認知症を患っていたらしい。

しかし、精神科医・飯田眞の例の小論を見ても、それらしき記述は見当たらない。

釋超空の母は上記小論によれば、

『母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。』

とあり、ある時期までは認知症などとは無縁な健康な精神状態だったようである。

実は、私の母はアルツハイマー型認知症を患っていた。
しかし、私を『幼名によ』ぶほどの症状ではなかったが自活は無理な状態ではあった。

***

何ヶ月前だったか、『ラジオ深夜便』というラジオ番組で、三浦朱門が話をしていた。
人の老いについての話題だった。そこで彼はこんなことを言っていた。

『人は歳をとれば肉体的に衰弱していくのは当然である。その場合、肉体的には衰弱していながら精神は何一つの疾患もなく健康だということは、ある意味で不幸なことだ。なぜなら肉体の衰弱を自身の心(精神)が冷静に見つめ得るということは残酷なことでもあるからだ。

肉体が衰弱していくのが必然ならば、それに相応して心(精神)も衰弱していくのが理想かも知れない。』

そういう趣旨の発言だった。

私は、それは一理ある見方だと思う。というのは、私なりの実体験があるからだ。

実は、私の母が痴呆症のとき、父が脳梗塞で倒れ半身不随となり入院生活を余儀なくされた。脳梗塞というのは恐ろしい病気で、一瞬にして人をほとんど廃人化してしまう。

私の父は6年間の入院生活後、亡くなったのだが、その事実を私の母に告げたとき、母は、『あ、そう。かわいそうだね。』と言ったきり、今までみていたテレビを何の表情を変えず観続けていた。

母は父の死亡という深刻で悲しい事実を、痴呆という症状が、健康な精神(心)であれば感ぜざるを得ない痛烈な痛みと悲しみを遮断したと言える。

このことは、母自身にとっても、私を含めた近親者にとっても、救いであったと思う。

痛烈に嘆き悲しんでも、どうしようもない現実から、事実上、母を解放してくれたのだから。嘆き悲しむ母の姿を、私たち近親者は見ずに済んだのだから。

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