釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『鮎宿で薩摩弁を問い返し』

2013-07-17 08:37:37 | その他の雑談
もう20年以上も前のことだがNECのPC-VANの或るSIG (此のサイトのコミュニティのようなものだが) で、郡上八幡が話題に上がった。

此のSIGには5,6名の常連がいた。私も其の一人だったが、その常連の一人に、確か「たねり」というHNだと記憶しているが、少しクセのある人物がいた。

皆が「白」と言えば、「黒」と云わないまでも、その「白」にイチャモンをつける一言居士であった。

彼の日頃の発言からして、およそ風流とは無縁な『乾いた』人物に見えたものだ。

郡上八幡の郡上節の『かわさき』を遠くで聞くともなく聞いているのは良いものだ、との私の発言がキッカケで郡上八幡の話題で盛り上がったものだった。

そのとき、例の人物が、ふと自作の句を披露した。
それが掲題の俳句であった。

それを見たとき私は良い句だなと思った。しかし、強いて其のことは発言しなかった。
他の常連たちも何の発言もなかった。 結局、彼の披露した俳句は無視される形で話題は続いた。

その無視は、彼の日頃の一言居士振りの結果だったのだろう。

俳句の素人である私は其の句の客観的な評価は出来ない。
しかし盆踊りの盛夏の季節になると郡上八幡の『かわさき』の哀調と共に彼の句を常に思い出す。

雑談:巡回セールス問題と蟻の知恵

2013-07-14 14:17:51 | その他の雑談
先日、テレビをみていたら面白い番組を放送していた。
生物の行動を真似て、難しい問題を解こうというのだ。

数学に『巡回セールスマン問題』という実質的な難問がある。 この問題とは以下のものだ。

『複数の都市をちょうど一回ずつ訪れて、全ての都市を巡るとき、なるべく早く出発点に戻ってくるには、どのようなルートを選ぶのがベストか?』

都市の数が5,6個程度なら恐らく誰でも何とか解答できるだろう。 では都市の数が10か所だったらどうだろう?

驚くなかれ、ルートの選択肢の数は181万4400通りとなる。 コンピューターを使えば何とかなるかも知れない。

では都市の数が15程度ではどうなるだろう。
10^12以上だそうである。

試しに、^ を使わずに書いてみよう。1000000000000以上なのだ。 たぶん並のコンピューターでは不可能だろう。

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では、蟻たちはどうしているのだろう? やつらも似たような問題を抱えている。

やつらにとって「都市」の数は10どころではない。それこそ100位はあるだろう。

100ならば、その場合の選択肢は10!/2で、計算する気にもなれない。 私の技術者用の電卓で計算しようとしたらエラーで計算不能となった!!

しかし蟻たちは此の難問をどう解決しているのだろう? 
というわけで研究者たちが蟻の行動を調べたそうな。

どうも蟻たちはテクテク歩いているとき道に或る種の揮発性の匂いをつけていて、エサを見つけた蟻は巣に戻るのだが、その時、その匂いを濃くするそうだ。

結局此の行為が、結果的に此の難問の解決策になっている、ということらしい。

無効な「ルート」は揮発して消えてしまい、有効な「ルート」は揮発されず其の匂いが加算されていき、何回かの試行錯誤のうち適度な時間内で、最短ルートを「みつけてしまう」らしい。

そこで、研究者たちは此の蟻の「知恵」を借りて、コンピューター・シミュレーションしてみたそうだ。その結果、この「知恵」が実に有効だと分かったそうだ。

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この世の生物たちは何万年もかけて彼らの「知恵」を、それこそ命がけで磨き上げてきた。

人類などとは比較にならない時間の長さをかけての実用方法の取得なんだから、その知恵たるや凄いものがあるだろう。

人間は万物の霊長などと威張っているが空疎なものだ。

私は道をテクテク歩いている蟻を見ると尊敬したくなった。

雑談:『秋』 (芥川龍之介)

2013-07-13 13:34:39 | その他の雑談
今日も蒸し暑い日だ。当然なことだが夏は暑いし、冬は寒い。
昔からそうなんだから仕方ないが、なんだか歳を重ねるうちに其の暑さ・寒さが身に堪えてくる気がする。これは私の主観だけではなさそうで、地球レベルでもそうなっているらしい。

季節外れだが芥川龍之介に『秋』という佳品がある。

若い姉妹が登場する。ストーリーは省略するが、例によって芥川の此の姉妹の心理描写が面白い。私は此の短編を読むと、成瀬巳喜夫の映画を観ているような感じがする。

女性を描かせたら、成瀬巳喜夫の右に出る人はいないと何かで読んだことがある。

芥川の此の『秋』の、妹の夫をめぐる姉妹の微妙な心理の綾も成瀬向きではなかろうか。

例えば成瀬に『めし』という映画がある。ストーリーは、だいぶ異なるが此の映画に登場する人物たちの内面心理は・・・それが内面に留まっていて、外面に噴出しない点においても・・・『秋』の姉妹たちの内面心理に似ている。

我々の日常生活においても、こういう翳(かげ)りのような、淡いと言えば淡い心理の動きは体験しているはずだ。 だから、『めし』においても『秋』においても、我々は登場人物の心理に自己を投影できる。 

芥川の小説は全てそうだが、その特徴は終わりの文章にある。
この『秋』もそうであって、引用してみよう。
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『薄濁った空、疎(まば)らな屋並(やなみ)、高い木々の黄ばんだ梢(こずえ)---後には不相変(あいかはらず)人通りの少ない場末の町があるばかりであった。
「秋---」
信子はうすら寒い幌の下に、全身に寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかった。
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この信子(妹)の「寂しさ」も、所詮は、先に書いたように我々も日常で感じている淡い心理の翳(かげ)だろう。

雑談:『我が人生の時の時』(石原慎太郎著、新潮社)

2013-07-12 08:26:21 | その他の雑談
私の『本棚』はダンボール一箱だが (数年前、専門書を含めて、ほとんど捨てた) 其の中に残っている数少ない、非理系の本の一つが掲題のエッセー集である。

我が愛読書の一つと言っていいだろう。まさに、夏、読むのに最適な本である。

石原慎太郎と言えば、あの強面の意地悪爺さんの顔を不愉快に思う人が多いだろう。

私は政治に関心がないから其の方面の彼については、どうでも良い。 嫌いな人は勝手に嫌うがよい。

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此の本は彼の若き日の夏の体験が書かれている。

その体験での彼の視線は、他の人がどう思うが私には実に新鮮であって、其処には青臭い文学青年とは全く異質のものがある。

それを文学と呼ぼうが何と呼ぼうが、此れもどうでもよいことだが、海というものの不気味さと底知れなさが直截な体験として書かれている。

「おか」の鬱陶しい人間関係しか知らない輩(やから)にとっては、全くの別世界が海であって、著者は其の世界の光と闇の体験を語っている。

ショート・ショート風の短いエッセー集だから、このクソ暑い日の午後、この本を読んで海の『闇』に触れるのも一興だろう。

雑談:咳をしても一人

2013-07-07 12:35:46 | その他の雑談

有名な尾崎放哉の俳句ですね。

以下はWikpediaに掲載されている尾崎放哉の人物像です。

『吉村昭によると、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれたという。(中略) 吉村が1976年に取材のため島を訪ねた時、地元の人たちから、「なぜあんな人間を小説にするのか?」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今、彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている。』

貴方は此のような人物と関りをもちたいですか?
たぶん、NOでしょう。私だって後免こうむりたい。

しかし掲題の俳句に私は惹かれるのは事実です。此の寂寥感は、たった5文字なのに、いや、たった5文字であるが故に、おそらく全ての人が共感するであろう普遍性をもっていると私は思います。

そのような、おそらく時空を超えた普遍性を持つ俳句というより芸術を生み出す代償が上記のような人物であらねばならぬとしたら、芸術とは何と皮肉で残酷なものでしょう。

私たちは、概して、芸術の果実を飽食しながら、その芸術を生み出した人たちの惨憺たる苦渋を忘れがちです。しかし、それがイケナイということではない。
芸術というものは本来そういうものでしょうから。

ただ私はここで芥川龍之介の以下の警句を思い出さざるを得ないのです。

『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩をの千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚いてゐる。』

この警句の極端な例が尾崎放哉であり、種田山頭火でしょう。
いや、彼らほどでなくとも、私たちが現在『香を焚いてゐる』芸術たちの果実を、私たちは無邪気に飽食している。

繰り返しますが、其れがイケナイということではない。
芸術というものは、所詮、そういうものでしょうから。

ただ、私たちは其の飽食の途中での一瞬でも、その作者達の苦悩に思いを馳せることも決して無益なことではありますまい。