3人目のお孫さんが生まれた。
息子さん1号のところの2番目の赤ちゃん。
お嫁さんの願いむなしく、また男の子だった。
赤ちゃんが生まれるとさっそく必要になるのが名前。
節子さんの息子さんが考えていた名前を蹴って、お嫁さんがテレビで見ていて気になった名前をつけたい、と言い出した。
が、お嫁さんがつけようとした名前は画数が良くない、ということで結局お嫁さん本人が、息子さんのつけた名前でいいわ、ということで決着をみたらしい。
へぇ・・
こんなに多様化した世の中で、考え方も多種多様になっているのに画数とかにこだわるんだなぁ。とちょっと意外だった。
私が生まれた昭和30年代には、まだ、そういう画数にこだわった名付けというのはそんなにも浸透していなくて、大抵は親やおじいちゃんたち、お世話になった人や、檀家になっているお寺の住職さん、その町の名士、なんかにつけてもらうのが多かったのではないだろうか。
そんな私の名前は、私の母が当時心酔していたひと(そのひとが何者かはいまだ私はよくわからない)につけてもらった。
そこでもひと悶着あったらしい。
父方の祖父は、私に「智子」という名前を用意してくれていた。
だが、最初に生まれた子どもの名前は、どうしても自分に選ばせて欲しい、と母が言い張って、そのよくわけの分からないひとにつけてもらった名前に決まった。
その後生まれた弟たちの時代になると、姓名判断がはやりだし、父は「良い」とされる画数の名前を弟たちにつけた。
物心ついた私が、姓名判断の本で自分の名前を占うと
「波乱万丈の人生をおくるでしょう」
となっていた。
「責任感は強いが、わがままで自己中心的、勘は鋭いが歯に衣着せぬ物言いが災いして、敵を作ることが多くなります。そのため、選ぶと選ばざるとに関わらず、浮き沈みの激しい波乱万丈な、ある意味ドラマチックな人生を歩むことになるでしょう」
というようなことが書かれていた。
あまりに私の性格を言い当てているので、びっくりするやらがっかりするやらで、母に
「なんでこんなサイアクな名前をつけてもろたん?」
と食って掛かったことがある。
その後、高校に入りアイウエオ順の出席番号で前後になった友人。
私が、もし祖父が言うとおりの名前になっていたら、まったくの同姓同名だったのである。
幼い頃に、読んだ姓名判断の本に書かれていたことがまたしてもよみがえる。
もし、私が彼女と同じ名前だったなら・・・
その友人とは、同じ大学を受験した。
彼女は受かり、私は落ちた。
卒業後、一流商社に入った彼女と、とりあえずの会社に入った私。
お見合いで大きな商家に嫁いだ彼女と、恋愛でいまの夫に嫁いだ私。
左団扇で暮らす彼女と、あくせく働く私。
私がつけられるはずだった「智子」という名は、いとこが祖父から貰い受けている。
そんないとこは、順風満帆な人生を送っている。
やっぱり、画数がもたらす運命ってあるんだろうか。
そんなことをふと、考えたりするのである。
いやいや・・
だけど、ひょっとしたら左団扇の彼女は、金銭的に困ることはなくても、精神的に歳の離れたご主人と楽しくない毎日かもしれないし
意地悪なお姑さんの監視の目が光っていて、行動の逐一を見張られているかもしれないし。
なんて、根性の悪いことを考えていたら、毎日好きなように動けて、げらげら笑って暮らせる今の生活も悪くはないかな、と思えてくる。
たとえ悪い画数ばかりを持っていても、努力や才覚で豊かな人生を送っている人だって山ほどいるし、反対に良いとされる数字ばかりを持っていても楽しくない人生を送っている人だってこれまた山ほどいることだろう。
実際、画数は強い運勢をもっているはずの息子は、いまのところ鳴かず飛ばずの人生である。
夫が言うように、漢字のない国で姓名判断なんてものは存在しない。
アルファベットの国はどうすんねん?ハングル文字は?アラビア文字は?
確かにそうよね。
数字の持つ力の不思議はあるかもしれないけれど、そればっかりじゃないと信じたい。
息子さん1号のところの2番目の赤ちゃん。
お嫁さんの願いむなしく、また男の子だった。
赤ちゃんが生まれるとさっそく必要になるのが名前。
節子さんの息子さんが考えていた名前を蹴って、お嫁さんがテレビで見ていて気になった名前をつけたい、と言い出した。
が、お嫁さんがつけようとした名前は画数が良くない、ということで結局お嫁さん本人が、息子さんのつけた名前でいいわ、ということで決着をみたらしい。
へぇ・・
こんなに多様化した世の中で、考え方も多種多様になっているのに画数とかにこだわるんだなぁ。とちょっと意外だった。
私が生まれた昭和30年代には、まだ、そういう画数にこだわった名付けというのはそんなにも浸透していなくて、大抵は親やおじいちゃんたち、お世話になった人や、檀家になっているお寺の住職さん、その町の名士、なんかにつけてもらうのが多かったのではないだろうか。
そんな私の名前は、私の母が当時心酔していたひと(そのひとが何者かはいまだ私はよくわからない)につけてもらった。
そこでもひと悶着あったらしい。
父方の祖父は、私に「智子」という名前を用意してくれていた。
だが、最初に生まれた子どもの名前は、どうしても自分に選ばせて欲しい、と母が言い張って、そのよくわけの分からないひとにつけてもらった名前に決まった。
その後生まれた弟たちの時代になると、姓名判断がはやりだし、父は「良い」とされる画数の名前を弟たちにつけた。
物心ついた私が、姓名判断の本で自分の名前を占うと
「波乱万丈の人生をおくるでしょう」
となっていた。
「責任感は強いが、わがままで自己中心的、勘は鋭いが歯に衣着せぬ物言いが災いして、敵を作ることが多くなります。そのため、選ぶと選ばざるとに関わらず、浮き沈みの激しい波乱万丈な、ある意味ドラマチックな人生を歩むことになるでしょう」
というようなことが書かれていた。
あまりに私の性格を言い当てているので、びっくりするやらがっかりするやらで、母に
「なんでこんなサイアクな名前をつけてもろたん?」
と食って掛かったことがある。
その後、高校に入りアイウエオ順の出席番号で前後になった友人。
私が、もし祖父が言うとおりの名前になっていたら、まったくの同姓同名だったのである。
幼い頃に、読んだ姓名判断の本に書かれていたことがまたしてもよみがえる。
もし、私が彼女と同じ名前だったなら・・・
その友人とは、同じ大学を受験した。
彼女は受かり、私は落ちた。
卒業後、一流商社に入った彼女と、とりあえずの会社に入った私。
お見合いで大きな商家に嫁いだ彼女と、恋愛でいまの夫に嫁いだ私。
左団扇で暮らす彼女と、あくせく働く私。
私がつけられるはずだった「智子」という名は、いとこが祖父から貰い受けている。
そんないとこは、順風満帆な人生を送っている。
やっぱり、画数がもたらす運命ってあるんだろうか。
そんなことをふと、考えたりするのである。
いやいや・・
だけど、ひょっとしたら左団扇の彼女は、金銭的に困ることはなくても、精神的に歳の離れたご主人と楽しくない毎日かもしれないし
意地悪なお姑さんの監視の目が光っていて、行動の逐一を見張られているかもしれないし。
なんて、根性の悪いことを考えていたら、毎日好きなように動けて、げらげら笑って暮らせる今の生活も悪くはないかな、と思えてくる。
たとえ悪い画数ばかりを持っていても、努力や才覚で豊かな人生を送っている人だって山ほどいるし、反対に良いとされる数字ばかりを持っていても楽しくない人生を送っている人だってこれまた山ほどいることだろう。
実際、画数は強い運勢をもっているはずの息子は、いまのところ鳴かず飛ばずの人生である。
夫が言うように、漢字のない国で姓名判断なんてものは存在しない。
アルファベットの国はどうすんねん?ハングル文字は?アラビア文字は?
確かにそうよね。
数字の持つ力の不思議はあるかもしれないけれど、そればっかりじゃないと信じたい。
アプリコットさんの妹さんの婚家の方々も、赤ちゃんのことを思うが故のことなのでしょうけれど、産んだお母さんの立場になってみれば、自分のこどもの名前を親が決められないなんてとても哀しいことだったでしょうね。
アプリコットさんちのように、ご夫婦であれこれ悩みながら決定して、あとで振り返っても楽しい思い出だったね、と言えるのが理想ですね。
私の名前、あまり人とかぶらない点においては私もまんざらでもないのですが、「波瀾万丈な人生をおくる」と言われるとやっぱり、穏やかな人生であって欲しい、と願ってしまうんですよ(笑)
アプリコットさんのお名前は、確かお母様がお好きな作家の方から一字をとったお名前でしたよね?
温厚で知的な雰囲気のアプリコットさんにピッタリのお名前だと思った記憶がありますよ。
新しい命の誕生で最初から揉め事なんて・・・気の毒だなと思いますが、それだけその子にかける周囲の期待の現われなのかも知れませんね。
我が家は全くもめず、夫婦で候補をあれこれ考え(画数など全く考慮せず!)最終的に私が気に入った名前に夫が同意してくれて楽しい思い出です。
妹の三人の子どもはどの子の名づけの時も旦那さんのご両親からクレームが付き、妹の産後の不安定な精神状態を更に悪化させていたのを思い出しました。
どの子も良い名前なのですよ。
字画にこだわるのは、名づけの責任が大きすぎて、何かに頼りたくなってのことではないか?と思います。
生まれたばかりの可愛い子供の人生が少しでも良いものであるようにと願ってのことでしょうね。
それでも途中で改名する人もいるのですから、人は何かに頼って生きるのかも知れません。
CITROENさんのお名前も素敵です。
今時のびっくりするような当て字でも何でもないのに、個性的な印象です。
名前で人生が決まるのかも知れませんが、変るかどうかは歩んだ人生をやり直す事は出来ないので誰にも分からないですよね。
節子さんの三人目のお孫さんが健やかに成長されますように!