リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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リサイクルショップ、廃品回収業者

2008年03月26日 | Weblog
引っ越し前には大量のゴミがでる。
引っ越しは『モノ別れ』の最大のチャンスだと、せっせとモノを処分する。

当地ではペットボトルや空き缶、古紙など資源ごみ系は月に1度、燃えないゴミは月に2度しか回収しないので当直などが重なると出せないことも多くどうしてもたまりがち。

特に古紙が大量にでた。
大学や研修医時代の教科書やノート、古書店には売れないが二度と見ることもなさそうな本を束ねる。
毎月購入していた雑誌類、学会誌等もこの機会に処分。
積読してあった本も見ると取っておきたくなるので見ずに処分。
古紙の束で壁ができた。

本の中でBookOffに売れそうなものは売る。
これは量が多いだけあって、それなりの値段がついた。
売れないものは廃品回収業者へ搬入。
古紙だけは無量で引き取ってくれる。

次に、タンスやザック、引き出物の残り、小物などリサイクルショップに売れそうなものをリサイクルショップへ搬送した。

涙がでるくらい二足三文だが、引き取ってもらえて、使い手を捜してもらえるだけ捨てるよりはマシか。
80リットルのモンベルのザック(2階くらいか使用していない)なんかも数百円。桐の小型階段ダンスも数百円、その他の小物は数円~数十円という単位。

ちょっと悲しくなる。

扇風機や年式が古いということで引き取ってもらえず。(2001年以降の稼働品しかダメとのこと。)
スノボは買い取るがスキー板は買いとれないとのことで、歩くスキーの板も売れなかった。
売れないものも有料で引き取ってくれるが、アイロンなど家電で3000円など、ぼったくり価格なので、廃品回収業者へ搬送すべし(数百円)。

本当に大事にしていたものに安い値段しかつかないのも悔しい。
逆に引き取り手のなさそうなものに少しでも値段がつくのも申し訳ない。

最近ではものは買ったとたん金銭的な価値が殆ど無くなるようだ。

本当は物語を引き継いでくれる相手に、オークションなどで相対して譲るのが一番良いのだろう。
大切に作られたモノを長く、大事に使いたいものである。

大手リサイクルショップへ搬送していて、ある患者さんのことを思い出した。
旅行会社にいて、自分でツアーを企画して募集し個人のファンもつくような方だった。
あるとき思い立って、これからはリサイクルの時代だということでリサイクルチェーンの店長となり店を切り盛りしていた。
がんが見つかってからも痛み止めを使いながらギリギリまで仕事をつづけていた。

デフレでモノあまりの時代。
大型小売店であまり変わらない値段で新品が買えてしまう。
リサイクルショップという商売もよほど大型か、店のコンセプトがはっきりしなければ厳しいだろうなと思う。

どのようにモノとつきあい、モノの循環をつくるかが今後の課題だろう。

リサイクルショップにも売れず、どうにも引き取り手のないものは廃品回収業者に搬入。(平元商店、e-stage)

古紙類は無料。
燃えないゴミなど一袋、300~500円弱でだいたいそのまま引き取ってもらえる。家電類も1個数百円での引き取り。
食器棚など大型家具は500円程度かかった。

しかし家電リサイクル法に指定されている4品目、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンのリサイクルもどきを行っているものは数千円かかる。
4品目だけ分けたのも意味不明。

ユーザーの段階、あるいは業者の段階で不法投棄を誘発しているだけだと思う。
(実際ヤマダ電機がリサイクルで回収したものを横流しや不法投棄し問題となっていた。)

昔のように、なんでも庭で燃やせるものならいいのにと思ってしまった。

おモノ持ちの国。ニッポン。

2008年03月26日 | Weblog
引越し前にチャンスとばかり荷物を大幅に整理している。

整理してみて気付くのはいかに使っていないものが多かったかということだ。
「ちょっといいな。」とおもって買ってみたけれども結局使わずじまい。

買い物依存症というビョーキがある。
自分の空白を消費することで埋めようと、クレジットカードで借金してでも脅迫的に買いつづけてしまうというおそろしい病態だ。
心が疲れていて何か満たされないとき、大きな買い物をして発散すると言うのには身に覚えがある。
財布の紐が緩む旅先や、イベントのとき、仕事で疲れたときなどが危険だ。

しかしそれはしょせんはは不毛な消費、後になってココロはますます疲れてしまうだけだ。

一方、何かを捨てるのというのは多大なエネルギーが必要な行為だ。
「モノ別れ」には多大な決心がいるし、自分も変わることが要求される。
疲れていてエネルギーレベルが低いときには 「捨てる!」決心がつかず、ますます捨てられなくなり、モノにあふれ散らかり放題になる。


大量生産、大量消費をあおる一方で、環境へ配慮したふりを見せる政策のため、ゴミの分別要求はますます高まり、リサイクルもどきが横行している。
ある車(セレナ)のように「モノより想い出」という宣伝文句で、買わそうとするのは結局モノなのだ。
リサイクルしているというアリバイ的名目で消費者の罪悪感を消し、結局、新しい商品を買わそうという魔の手もある。

モノを捨てることはますます難しくなってきている。

こうして部屋はモノで埋め尽くされ「おモノ持ち」の「汚部屋」ができあがる。

モノを処分するとき、モノに対して十分な愛情を注いでやれなかったのが申し訳なさを感じる。
しかし持ちつづけていると時間もエネルギーも場所もつかうので別れざるを得ない。
こうして「今度こそモノを得るときによく考えよう。」と何度も決心するのだ。

モノとに付き合い方に関してはムーミン童話の人気キャラクター、スナフキン師匠の言葉が参考になる。

「なんでも自分のものにして、もってかえろうとすると、むずかしいものなんだよ。
ぼくは、見るだけにしているんだ。そしてたちさるときは、それを頭の中へしまっておくのさ。
ぼくはそれで、かばんをもち歩くよりも、ずっとたのしいね」

さすが旅人、スナフキン師匠である。

最低限のモノをパッキングし旅にでると、いかに普段モノを持ちすぎているかがわかる。
いかにモノを増やさないか、必要なものは何か?
旅(人生そのもの)のテーマに添って、相棒となる本を絞り込み、いくつもの役割を少しのモノで兼ねられないか頭を絞る。
旅先で借りたり、公共の設備をつかったりすることで新たな発見もあるし、交流も生まれる。

モノに散々振り回された挙句、自分もちょっとは成長して、多少は我慢することを覚え、未来への想像力を身につけた。
「ちょっといいな。」と思ったくらいではかわず、代わりにデジカメで撮影したりノートにスケッチしたり、文章にしたり、あるいはマーケティングやコピーライティング、プロモーション、発想の教材にさせてもらったりしてそれで十分満足している。


私達には移り変わる季節や景色、感動を三十一文字のコトバに封じ込める俳句もある。手帳ひとつあれば、いつでも楽しめるのだ。(なんてお得な・・・。)

暮らしはシンプルが一番である。

個人でのモノの所有は最低限にして、機能を町へ地域へ拡張していったほうがどれだけシンプルに暮らせるか・・。

しかしメディアは未だに「消費は美徳」という思想を押し付け、消費をあおり続ける。

テレビはより高画質に、ネットワークには常時接続、見たい感覚をいつでも取り出すことができ、それぞれの快適な空間へ引きこもったままいつでも移動できる。

たしかにそれは素敵なことかもしれない。

しかしその副作用は大きい。
人はますます我慢することを忘れ、世の中には思い通りにならないこともあるということが理解できなくなっていく。
メディアの発する情報や時代の空気をダイレクトに取り入れ、それで自分で考えた気になってしまう。

だれかに命じられるままに踊らされ、慌てて消費に走らなくても、見方をすこし変え、自分で見て、聞いて、感じて、考えるだけで世の中は感動と驚きに満ちている。

いまこそあたなの「Sense of Wonder」を取り戻す時だ。

もし大量消費をつづけなければ経済がまわらないと言うのなら経済活動それ自体をスローダウンすればいいだけのことだ。

大量生産大量消費は化石燃料が可能にしたうたかたの夢だ。
いつまでも持続可能なものではないし、ヒトのココロや身体感覚を破壊しながら続けるほど価値のあるものとも思えない。

人間、所詮は起きて半畳、寝て一畳である。

わが国には「清貧の思想」があった。
少しの愛用品とともに豊かに暮らしてきた先人の知恵を今こそ見直す必要があろう。