横浜柔拳を見て衝撃を受けた健治親分は早速行動に出ます。
柔拳を行うにはまず、ボクシングを知らなければなりません。
そのためにはまずトレーニングするジムが必要ですが、これは健治親分が自分の邸宅内にボクシングジムを造ってあっさり解決( ゚Д゚)!
このジムはのちに「大日本拳闘倶楽部」通称「大日拳」となり、戦前の日本ボクシング界における「西の横綱」となります。
次に、ボクシングをよく知る専門家…つまりコーチが必要ですが、ここで健治親分はなんと、外国人コーチを雇い入れます。
そのコーチは誰かというと、前回の原稿で「スミス柔拳」として紹介した興行の中心人物となったアメリカ人ボクサー、エドワード・スミス。
スミスは当時、アメリカで大きな話題となっていた異種格闘技戦無敗の「コンデ・コマ」こと前田光世の試合を見て日本の柔道に興味を持ち、柔道を学ぶことで、柔道をボクシングと「比較研究し彼我の長所を取りて帰国の上は本国に柔拳倶楽部を設立」(明治44年10月10日付時事新報)するため来日し、「エール大学卒で、武道を修めた紳士」という触れ込みでしたが、後のわが国における動きを見る限り、ガイジン慣れしていない日本で一山当てようとした、無学な山師だったとしか思えません(本邦入国がアメリカ本国からではなく、当時の米植民地だったマニラからだった辺りが怪しい)。それはさておき(;^ω^)。
ともあれ、スミスを雇った健治親分がどのようにボクシングに取り組んだのか。当時を語る健治親分の貴重なインタビューが「明治事物起源」に掲載されていますので、見てみましょう。
「明治四十二年頃、講道館の名物男だった紺野君(≒昆野陸武のこと)が、横浜在住の拳闘外人と、日本最初の柔道対拳闘の一騎打ちをやって一勝一敗に終わったことがあった。成る程これは面白いスポーツだと感じ、翌四十三年、神戸に上陸したエール大学出身のスミスといふ外人を、御影の私の道場まで引張って来て、柔道をやらせて見やうと計画した。」
これだけ読みますと、健治親分はたまたま日本にやってきたスミスを臨時的に雇い入れ、ボクシングを教えてもらっただけのように見えますが、そこは一流の経済ヤクザだった健治親分。おそらく独特の嗅覚で「スミスは山師」ということと「ボクシングの腕は間違いなくある」ということを見抜き、一挙両得を狙ったと思われます。
その一挙両得とは「スミスを使って興行を打って儲ける」「スミスからモダン・ボクシングのテクニックを学ぶ」です。
スミスにはクレー(アメリカ人)及びハウス(ドイツ人)という仲間がくっついてきていました。特にハウスは身の丈190センチ近い大男で、見世物興行の柱としてはうってつけ。
これを見た健治親分は早速、一行を用いた柔拳興行を打ちます。先ほどのインタビューの続き。
「難波の相撲場を借りて、リングと称し、まあ柔拳の試合といふところまで漕ぎ付けた。」
この「難波の相撲場」とは、当時大阪にあった相撲常場所のことであり、健治親分は相撲頭取・朝日山四朗右衛門に諮ってこの場所を借り、明治44年6月2日~4日にかけて柔拳興行を打ち、かなりの人気を博しました。
一行はこの後中国・四国地方を回ってそれなりに評判を呼びましたが、一行は調子に乗ってカネを使いすぎてスカンピンとなり、もう一山当てるために上京。
10月11日から3日間の興行はそれなりに好評を博しましたが、以後興行は全く振るわず、窮した3人は、投宿先のホテルから代金を払わずにドロン。その1か月後の11月、ハウスが横浜において無銭飲食で逮捕され、20日間の拘留を打たれています。
スミス一行の動きを見る限り、健治親分が一行のケツ持ちをしていたのは、おそらく大阪興行~スミス一行の上京あたりまでと思われます。
当時、日本トップクラスの親分だった健治親分がケツ持ちを続けていれば、スミスたちが東京で食い詰めることも、ホテルから脱走して無銭飲食することもなかったはずですし、だいいち、健治親分がケツ持ちをしているのにヘタに逃亡すれば、いくら外国人とはいえ、親分の手下たちがたちまち一行を(物理的に)消してしまうでしょう(;^ω^)。しかし、そうはならなかった。
先ほども申し上げましたが、健治親分が一時的とはいえ、スミス一行のケツ持ちをした理由は「スミスたちを使った興行を打つこと」「最新のモダン・ボクシングのテクニックを教えてもらうこと」であり、それが終わればスミス一行なんて、どうなろうと知ったこっちゃなかったのです。
スミスたちが日本から強制退場させられた後、健治親分の手元には、大阪・中国四国興行の儲けと、スミスから習ったボクシングのイロハがガッチリ残りました。当時日本最強の経済ヤクザの面目躍如といえましょう。
スミス一行の柔拳興行は、わずか数か月でうたかたの如く消え去りましたが、健治親分のボクシング熱はその後も留まるところを知りませんでした。
健治親分インタビューの続き。
「(スミスたちが去った)その後、神戸に上陸する外人で、暇のある連中を、どしどし御影の道場に連れて来て、懸命に拳闘術の習得に勉(つと)めた。いや、全く真剣だった。」
健治親分の「道場」での練習ですが、その実はろくなガードテクニックも知らず、満足な道具(グローブや防具)もなく、ガチで殴り合うことばかりを繰り返すという、実に殺伐としたものでした。
「嘉納氏自らグローヴを嵌めてガンガンやられるし、練習する連中が世評なんか糞喰ヘで行(や)る連中だから稽古の荒っぽかったこと(中略)。
何しろ練習中に『殴ったな、何糞ッ』『来いッ』ってな調子だったんだから、皆強いには強かった。」(拳闘読本一問一答 昭和7年より)
そのため健治親分は「今でも自分の鼻柱は折れてグニャグニャ」(先述インタビュー)という生涯消えない傷を負います。後になって野球のキャッチャーマスクをヘッドギア代わりに使うようになりましたが、ケガが日常茶飯事というムチャクチャな練習は、一定期間続いたようです。
現在に残る健治親分の肖像写真を見ますと、右目が左目とは明らかに違う方向を向いていることがわかります。もしかするとこの時の猛練習が仇になったのかも知れません。
親分自ら鼻をヘシ折りしながら習得したボクシングは、のちに健治親分のドル箱となる「神戸柔拳」を生み出すわけですが、このころの健治親分にとってボクシングは、もはや興行の道具という範疇を越え、自己のアイデンティティを形成するための欠かせざるものとなっていました。
この「スミス柔拳」のときもそうなのですが、健治親分は生涯に亘って格闘技大好き、特に当て身を巧みに駆使する術者を非常に珍重していました。
じつはこの「当て身を駆使する武道家好き」というのが、歴史的にも有名な本稿のオチになるんですが…それはのちのお楽しみとして(;^ω^)、次回は健治親分が本気で乗り出した「神戸柔拳」と、そのころ偶然?必然?的に時を同じくして始まった偉大なる叔父様・治五郎先生の「勝負法」の動きをトレースして見ていきたいと思います。
柔拳を行うにはまず、ボクシングを知らなければなりません。
そのためにはまずトレーニングするジムが必要ですが、これは健治親分が自分の邸宅内にボクシングジムを造ってあっさり解決( ゚Д゚)!
このジムはのちに「大日本拳闘倶楽部」通称「大日拳」となり、戦前の日本ボクシング界における「西の横綱」となります。
次に、ボクシングをよく知る専門家…つまりコーチが必要ですが、ここで健治親分はなんと、外国人コーチを雇い入れます。
そのコーチは誰かというと、前回の原稿で「スミス柔拳」として紹介した興行の中心人物となったアメリカ人ボクサー、エドワード・スミス。
スミスは当時、アメリカで大きな話題となっていた異種格闘技戦無敗の「コンデ・コマ」こと前田光世の試合を見て日本の柔道に興味を持ち、柔道を学ぶことで、柔道をボクシングと「比較研究し彼我の長所を取りて帰国の上は本国に柔拳倶楽部を設立」(明治44年10月10日付時事新報)するため来日し、「エール大学卒で、武道を修めた紳士」という触れ込みでしたが、後のわが国における動きを見る限り、ガイジン慣れしていない日本で一山当てようとした、無学な山師だったとしか思えません(本邦入国がアメリカ本国からではなく、当時の米植民地だったマニラからだった辺りが怪しい)。それはさておき(;^ω^)。
ともあれ、スミスを雇った健治親分がどのようにボクシングに取り組んだのか。当時を語る健治親分の貴重なインタビューが「明治事物起源」に掲載されていますので、見てみましょう。
「明治四十二年頃、講道館の名物男だった紺野君(≒昆野陸武のこと)が、横浜在住の拳闘外人と、日本最初の柔道対拳闘の一騎打ちをやって一勝一敗に終わったことがあった。成る程これは面白いスポーツだと感じ、翌四十三年、神戸に上陸したエール大学出身のスミスといふ外人を、御影の私の道場まで引張って来て、柔道をやらせて見やうと計画した。」
これだけ読みますと、健治親分はたまたま日本にやってきたスミスを臨時的に雇い入れ、ボクシングを教えてもらっただけのように見えますが、そこは一流の経済ヤクザだった健治親分。おそらく独特の嗅覚で「スミスは山師」ということと「ボクシングの腕は間違いなくある」ということを見抜き、一挙両得を狙ったと思われます。
その一挙両得とは「スミスを使って興行を打って儲ける」「スミスからモダン・ボクシングのテクニックを学ぶ」です。
スミスにはクレー(アメリカ人)及びハウス(ドイツ人)という仲間がくっついてきていました。特にハウスは身の丈190センチ近い大男で、見世物興行の柱としてはうってつけ。
これを見た健治親分は早速、一行を用いた柔拳興行を打ちます。先ほどのインタビューの続き。
「難波の相撲場を借りて、リングと称し、まあ柔拳の試合といふところまで漕ぎ付けた。」
この「難波の相撲場」とは、当時大阪にあった相撲常場所のことであり、健治親分は相撲頭取・朝日山四朗右衛門に諮ってこの場所を借り、明治44年6月2日~4日にかけて柔拳興行を打ち、かなりの人気を博しました。
一行はこの後中国・四国地方を回ってそれなりに評判を呼びましたが、一行は調子に乗ってカネを使いすぎてスカンピンとなり、もう一山当てるために上京。
10月11日から3日間の興行はそれなりに好評を博しましたが、以後興行は全く振るわず、窮した3人は、投宿先のホテルから代金を払わずにドロン。その1か月後の11月、ハウスが横浜において無銭飲食で逮捕され、20日間の拘留を打たれています。
スミス一行の動きを見る限り、健治親分が一行のケツ持ちをしていたのは、おそらく大阪興行~スミス一行の上京あたりまでと思われます。
当時、日本トップクラスの親分だった健治親分がケツ持ちを続けていれば、スミスたちが東京で食い詰めることも、ホテルから脱走して無銭飲食することもなかったはずですし、だいいち、健治親分がケツ持ちをしているのにヘタに逃亡すれば、いくら外国人とはいえ、親分の手下たちがたちまち一行を(物理的に)消してしまうでしょう(;^ω^)。しかし、そうはならなかった。
先ほども申し上げましたが、健治親分が一時的とはいえ、スミス一行のケツ持ちをした理由は「スミスたちを使った興行を打つこと」「最新のモダン・ボクシングのテクニックを教えてもらうこと」であり、それが終わればスミス一行なんて、どうなろうと知ったこっちゃなかったのです。
スミスたちが日本から強制退場させられた後、健治親分の手元には、大阪・中国四国興行の儲けと、スミスから習ったボクシングのイロハがガッチリ残りました。当時日本最強の経済ヤクザの面目躍如といえましょう。
スミス一行の柔拳興行は、わずか数か月でうたかたの如く消え去りましたが、健治親分のボクシング熱はその後も留まるところを知りませんでした。
健治親分インタビューの続き。
「(スミスたちが去った)その後、神戸に上陸する外人で、暇のある連中を、どしどし御影の道場に連れて来て、懸命に拳闘術の習得に勉(つと)めた。いや、全く真剣だった。」
健治親分の「道場」での練習ですが、その実はろくなガードテクニックも知らず、満足な道具(グローブや防具)もなく、ガチで殴り合うことばかりを繰り返すという、実に殺伐としたものでした。
「嘉納氏自らグローヴを嵌めてガンガンやられるし、練習する連中が世評なんか糞喰ヘで行(や)る連中だから稽古の荒っぽかったこと(中略)。
何しろ練習中に『殴ったな、何糞ッ』『来いッ』ってな調子だったんだから、皆強いには強かった。」(拳闘読本一問一答 昭和7年より)
そのため健治親分は「今でも自分の鼻柱は折れてグニャグニャ」(先述インタビュー)という生涯消えない傷を負います。後になって野球のキャッチャーマスクをヘッドギア代わりに使うようになりましたが、ケガが日常茶飯事というムチャクチャな練習は、一定期間続いたようです。
現在に残る健治親分の肖像写真を見ますと、右目が左目とは明らかに違う方向を向いていることがわかります。もしかするとこの時の猛練習が仇になったのかも知れません。
親分自ら鼻をヘシ折りしながら習得したボクシングは、のちに健治親分のドル箱となる「神戸柔拳」を生み出すわけですが、このころの健治親分にとってボクシングは、もはや興行の道具という範疇を越え、自己のアイデンティティを形成するための欠かせざるものとなっていました。
この「スミス柔拳」のときもそうなのですが、健治親分は生涯に亘って格闘技大好き、特に当て身を巧みに駆使する術者を非常に珍重していました。
じつはこの「当て身を駆使する武道家好き」というのが、歴史的にも有名な本稿のオチになるんですが…それはのちのお楽しみとして(;^ω^)、次回は健治親分が本気で乗り出した「神戸柔拳」と、そのころ偶然?必然?的に時を同じくして始まった偉大なる叔父様・治五郎先生の「勝負法」の動きをトレースして見ていきたいと思います。
やはり、当て力なくして打撃系武道・格闘技は成り立たず!ですね。嘉納健治親分はやはりアウトローだけあって、そういう点に敏感だったのが、先鋭的な商売と、ゲーム化した柔道への辛辣な目線となって表れたのだと思います。
次回もよろしくです!