徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも①・氷川丸船上その2~

2019-07-10 05:00:00 | 日記
4月20日午後2時---私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)をはじめ南方各地に配属されて赴任する同期生約50名は、横須賀軍港内に停泊中の病院船氷川丸に乗船した。

船は純白で、煙突に赤十字の標識を付けている。
私は4人の同期生と共に、指定された船室を使用することになった。

午後4時抜錨。
氷川丸は小雨ふり暮れなずむ横須賀軍港をしずかに出港した。
港内には空母をはじめ巡洋艦、駆逐艦など数隻が錨泊していたが、どの艦も、南方での激烈なる海空戦で敵弾をうけており、その傷跡のものすごい姿が、目の前を過ぎ去っていく。
それは、これから先の航海の多難を象徴するもののように見え、身の引き締まるおもいであった。
だが、東京湾を出てからの氷川丸は、灯火の管制もなくゆうゆうと南方に針路をとって進んだ。

灯火管制どころか、純白の船体と、煙突の赤十字の標識を電光でこうこうと照らし、舷側には緑色の電球が一線に船首より船尾にかけて照明されていた。
これが国際赤十字条約の規定なのである。
航海はきわめて平穏で、対潜警戒もなく、ジグザグ航行もせず、一直線に南へ南へと進んでゆく。

思えば昭和18年10月、見習士官に任命されたあと、海軍の基礎教育を受けるため原田丸にて神戸を出港、北支の青島(チンタオ)までの潜水艦攻撃に対処するためのジグザグ航行の航海、また19年2月中旬、青島より帰国する際朝日丸に乗船し、当時米潜水艦が跳梁していた黄海を単船で横断、朝鮮半島の西岸に沿って、玄界灘から門司港に入港するまでの、緊張の連続であった航海とはまったく異なり、一時南太平洋の重大な戦局も、ふと忘れてしまうような錯覚におちいるほど、穏やかな航海であった。

航海中は、海難救急事の短艇割当てなどの演習以外は、訓練らしきものは無かった。
夜間は交代で甲板士官の巡検に随行する。

下部の病室に当てられた船室には、南方各地に送られる特殊慰安婦が7、80人乗船していた。
そのうちのリーダーというか、女将というか、数人の年増女は立てひざをしたりあるいは寝そべり、居ぎたない格好で若い女にとり囲まれ、盛んにお喋りをしている。
媚粉と煙草のけむりのなかで私たちをじっと見上げる女もおり、また、うつろなまなざしで、視線をそらす女たちもいた。
戦局の進展も何一つ知らず、ただただ軍命令と金のために、遥か南方の島々へ送られていく女達の運命を考えると何とも言えぬ隣びんの情をおぼえた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)