徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問1~

2019-07-20 05:00:00 | 日記
さて、着任当時の私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)の日課といえば、朝食後、宿舎より500メートル離れた医務室に行き、午前中は外来診療、午後は入院患者の回診で、岡本軍医長の指導のもとで、外科系患者の治療に当たった。
内科系外来は白崎軍医大尉が受け持って、歯科の治療は北川歯科医中尉が一人で、他の隊の者まで治療を引き受ける忙しさだった。

患者の大部分は、そのころペリリュー島、メレヨン島上空の空中戦などで負傷した予科練出身の搭乗員や整備員などで、外傷の治療が主だった。
なかには予科練乙二期で、海軍の至宝といわれた東山市郎中尉もいた。彼はペリリュー島上空の戦いで搭乗機が被弾し、炎につつまれ落下傘降下して九死に一生を得たものの顔面、両前腕に第三度の熱傷をうけて入室していた。

まことに穏やかな謙虚な人柄で、いつも白衣姿で笑顔をたやすことなく、やさしい目をした人だった。幸いに負傷の回復もはやく、時折飛行場の戦闘指揮所で若い搭乗員の訓練の指導をしていたが、私には上田司令と指宿隊長の相談役、といった役柄のように思えた。

内科系では、風土病のデング熱と、とうじマリアナ地区に流行った流行性肝炎の患者が十数名いたが、重症患者はガラパンの第5海軍病院に転送するのがきまりとなっていた。

5月初旬、同期生の第8分隊の外川清彦軍医中尉が、トラックから転勤の途中とかで、突然サイパンに立ち寄り、午後のひとときをガラパン市の料亭で面会し、久しぶりに時のたつのも忘れて語り合った。

5月も中旬になると、医務室の勤務にもだいぶ慣れてきて、午後の回診などは、よく飛行場の戦闘指揮所に出かけていき、上田司令、指宿隊長、東山中尉と共に輸送機より取り外した座席に腰を掛け、零戦の訓練を見学したり、また、ハワイ空襲、ミッドウェー海戦などの話を聞くようになった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)