徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別3~

2019-08-23 05:00:00 | 日記
6月17日も夜に入ったころ、敵のアスリート飛行場奪取を策する進撃ぶりはいよいよ激しく、戦車の轟音は治療所の壕近くにまで聞こえてくるようになった。
このままではわが医務隊のみが孤立し、本隊と遮断される恐れがある。
そのためやむなく、夜間に乗じてこの戦時治療所を離れることに決したのであった。

その準備として陸軍の、主として高射砲陣地からの負傷者は原隊に連絡を取り、原隊の衛生兵に引き渡しをすませる。
一部、陸軍の負傷者と衛生隊はこの防空壕に残るという。
ついで、261空の重傷者はトラックで、軽傷者は徒歩で、夜の暗闇に乗じて脱出することとし、医務隊全員は携帯可能な医療品を出来るだけ運び出し、アスリート飛行場近くの防空トーチカに移動したのであった。

そのトーチカは、アスリート飛行場近くの至近距離にあり、耐砲弾・爆弾の鉄筋コンクリート製のカマボコ型のもので、壁の厚さは約30センチ、鉄扉を備え、まさにトーチカ然として作ってあった。
これが二ヶ所にあり、一ヶ所に約50名が収容できた。

敵の上陸後にも、毎日のように夜半頃になると、敵戦艦や陸上部隊に対してグアム、トラック、ペリリュー、硫黄島などから発進したと考えられる、わが海軍の爆撃機による攻撃が行われていた。
その時は島の周辺の敵艦隊は一斉に、花火のように対空火器の弾幕を張り巡らす。

上空はまさに真紅に彩られたようになり、その花咲く弾幕の中心部に一式陸攻が、銀河などの爆撃機が数機、探照灯で照らし出される。
次の瞬間、極めて正確に、高射砲弾が破裂し、命中する。
後にわかったことであるが、敵の電探射撃と近接信管をつけた砲弾の炸裂により、わが方の攻撃隊は無念にも、次々と真紅の火災に包まれて、海上に
壮烈なる自爆を遂げていったのである。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)