しかしながら、サイパンの南端ナフタン岬沖2000メートル付近に数隻の駆逐艦が停泊し、日没より夜明けまでわが陣地および夜襲予想地域にたいし、一秒の間隔もおかず200メートルほど上空に、正確に吊光照明弾を打ち上げてくる。
こうこうたる昼をあざむくような光の下で、私たちは命令書を読み取ることができるほどであった。
このため夜襲攻撃隊は、前進はもとより、移動さえ出来ず、かつまた、歩兵陣地からの援護射撃も全くなく、静まり返っているばかりであった。
一部右翼の部隊が突入態勢をとるために僅かに移動したところ、間髪を入れず、敵艦から速射砲弾を撃ち込まれるといった状態であった。
これも敵の進歩した電探射撃によるものと考えられ、私たちは全くのところ釘付けにされたまま、一歩も動けなかった。
そして夜11時頃になってついに、敵陣地への殴り込みは中止するという連絡がきたのだ。
そのあと、私たちは悄然と弾薬庫に引き返し、眠れぬ一夜をすごしたのであった。
翌19日朝9時頃、『米軍部隊が重戦車を先頭にアスリート飛行場南部に進行しつつあり。』との報告をうける。
(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)
徳川おてんば姫(東京キララ社)
こうこうたる昼をあざむくような光の下で、私たちは命令書を読み取ることができるほどであった。
このため夜襲攻撃隊は、前進はもとより、移動さえ出来ず、かつまた、歩兵陣地からの援護射撃も全くなく、静まり返っているばかりであった。
一部右翼の部隊が突入態勢をとるために僅かに移動したところ、間髪を入れず、敵艦から速射砲弾を撃ち込まれるといった状態であった。
これも敵の進歩した電探射撃によるものと考えられ、私たちは全くのところ釘付けにされたまま、一歩も動けなかった。
そして夜11時頃になってついに、敵陣地への殴り込みは中止するという連絡がきたのだ。
そのあと、私たちは悄然と弾薬庫に引き返し、眠れぬ一夜をすごしたのであった。
翌19日朝9時頃、『米軍部隊が重戦車を先頭にアスリート飛行場南部に進行しつつあり。』との報告をうける。
(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)
徳川おてんば姫(東京キララ社)