徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る2~

2019-07-24 05:00:00 | 日記
5月も末に近くなったころ、米軍地上部隊のニューギニア方面への攻勢とあいまって、とうぜん活発化するであろうと思われる敵戦闘部隊と水上艦隊の動きがはっきりつかめないにしても、大規模攻略の準備中であることは間違いがなく、このマリアナ諸島にも近くかならず大空襲がある、と予想された。

そのため飛行場一帯では対戦準備で大わらわとなった。
もはや訓練より哨戒・偵察が主要任務となってきた。
これまでの第二警戒配備は、まもなく第一警戒配備となり、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)たちも午前3時の起床で、暗闇の中を医務室に行って待機することとなった。
偵察機隊と戦闘機隊は、発動機の排気管より青白い光を出し、つぎつぎと爆音高く滑走路から急上昇して、東南の方向に飛び去って行く。

医務室では交代で仮眠をとるが、デング熱を媒介する蚊が不気味で、やむなく救急バスの中で蚊取り線香をたいて仮眠することにする。
そして朝8時に士官室に戻って、慌ただしい朝食をとり、また医務室へといそぐ。
この頃の朝食は、米飯、味噌汁、海苔、半熟卵などで、昼食は魚、肉などがあり、夕食となるとさらに良く、量も質も十分すぎるほどであった。

夕食後には通信室に行って、暗号の仕組みや、解読の仕方などを通信士から説明されるが、それが意外と難しく、とうてい短時間では理解することは出来なかった。
定時通信の合い間の短波受信機で、インドのデリーからの日本語の宣伝放送を受信し、欧州、アフリカ、ソビエトの戦線でのドイツ軍の苦戦、後退を知ったのもこの頃であった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る1~

2019-07-23 05:00:00 | 日記
5月29日の午前10時頃、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)はいつものように医務室で診療中であった。
と、突然、ズシンズシンと腹にこたえるような地響きがすると同時に、十数発の落雷のような連続爆発音を聞いた。
実戦の経験のある軍医長は、とっさに、「空襲だ、患者全員をつれて防空壕に入れ!」と矢継ぎ早に命令する。

患者と医務隊員は大慌てで鉄カブトをかぶり、近くの防空壕へとむかう。
上空を見ると、高高度に十数機からなる4発の米軍の重爆撃機B24の編隊が銀翼をつらね、南より北に向かっていた。

飛行場ではすでに、戦闘機十数機が迎撃のために空中に舞い上がっていた。
あとで司令より聞いたこの時の戦果は、2機撃墜、2機撃破とのこと。
撃破された2機は海上に不時着したらしい。

その日の夕刻、ゴムボートで漂う米軍機搭乗員6名が捕虜として収容された。
彼らは第5根拠地隊での取り調べののち、ただちに2式大艇により内地に送られて行った。
この頃グアム、テニアン両島も同時に空襲されたというが、いずれも損害は軽微であったとの事である。
とにかく、私としてはこれが、最初の”実戦”となったのである。

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問2~

2019-07-22 05:00:00 | 日記
上田司令は豪放磊落(らいらく)な武人であるが、一面、部下に対しては非常に細かく神経を使われ、指揮官としてはまことに人望のある方であった。
下唇の下に少し髭をたくわえられ、時には私などにも質問をされる。

例えばこうである。

零戦が着陸寸前になって、発動機の排気管よりパンパンと銃声のような音を発することがある。
すると司令は、すかさず、「井手中尉、あの音は何か?」とくる。

「わかりません!」と答えると

「零戦が着陸に失敗した際、火災発生を防ぐために電源を切る。その時、不燃性の生ガソリンの混合気体が、熱を持った排気管の中で爆発する、その音だ。」
といった具合である。

ある時、彗星艦爆兼偵察機が任務を終えて、アスリートに帰投した。
ところが、脚に故障を生じたのか出ず、上空で不時着のための信号弾を投下し、地上員の指示で胴体着陸を行ったことがあった。

私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)は軍医長の命令で衛生兵数名を連れて、ただちに救急バスで不時着機の近くまで急行し、搭乗員を救出するとともに医務室に運びこんだ。
彼らの多くは前頭部を損傷したり、熱傷を負っていた。
こんな事故はそれからも何回かあった。

サイパンの夜は、澄みきった空に無数の星にまじって南十字星がかがやき、ロマンティックというより不気味さえ感じられた。
また、夜、医務室に行く途中の草むらに、大きなガマガエルがひそんでいたり、ヘビこそいないが、時には大きなトカゲが、甘蔗のくきにとまっていたりして、大いに肝をつぶしたものである。

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問1~

2019-07-20 05:00:00 | 日記
さて、着任当時の私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)の日課といえば、朝食後、宿舎より500メートル離れた医務室に行き、午前中は外来診療、午後は入院患者の回診で、岡本軍医長の指導のもとで、外科系患者の治療に当たった。
内科系外来は白崎軍医大尉が受け持って、歯科の治療は北川歯科医中尉が一人で、他の隊の者まで治療を引き受ける忙しさだった。

患者の大部分は、そのころペリリュー島、メレヨン島上空の空中戦などで負傷した予科練出身の搭乗員や整備員などで、外傷の治療が主だった。
なかには予科練乙二期で、海軍の至宝といわれた東山市郎中尉もいた。彼はペリリュー島上空の戦いで搭乗機が被弾し、炎につつまれ落下傘降下して九死に一生を得たものの顔面、両前腕に第三度の熱傷をうけて入室していた。

まことに穏やかな謙虚な人柄で、いつも白衣姿で笑顔をたやすことなく、やさしい目をした人だった。幸いに負傷の回復もはやく、時折飛行場の戦闘指揮所で若い搭乗員の訓練の指導をしていたが、私には上田司令と指宿隊長の相談役、といった役柄のように思えた。

内科系では、風土病のデング熱と、とうじマリアナ地区に流行った流行性肝炎の患者が十数名いたが、重症患者はガラパンの第5海軍病院に転送するのがきまりとなっていた。

5月初旬、同期生の第8分隊の外川清彦軍医中尉が、トラックから転勤の途中とかで、突然サイパンに立ち寄り、午後のひとときをガラパン市の料亭で面会し、久しぶりに時のたつのも忘れて語り合った。

5月も中旬になると、医務室の勤務にもだいぶ慣れてきて、午後の回診などは、よく飛行場の戦闘指揮所に出かけていき、上田司令、指宿隊長、東山中尉と共に輸送機より取り外した座席に腰を掛け、零戦の訓練を見学したり、また、ハワイ空襲、ミッドウェー海戦などの話を聞くようになった。

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容3~

2019-07-19 05:00:00 | 日記
これらのうち、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)の配属された261空は、サイパン島における主力戦闘機隊で、定数72機、実動零戦52型45機を保有し、連日のように格闘戦、急降下、機銃発射、三号空中爆発焼夷弾の投下演習などの激しい訓練を行っていた。

司令は上田猛虎中佐(海兵52期)で、飛行隊長・指宿正信大尉(海兵65期)、機関長・小橋実大尉、主計長・藤原治主計大尉という陣容。
医務隊は、軍医長・岡本新一軍医大尉(昭和11年・桜士会組)、分隊長・石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年・たて・よこ組)、分隊士・井手次郎軍医中尉(昭和18年10月・青島組)、分隊士・北川徹明歯科中尉(昭和17年9月・元山組)、看護長・川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)、下士官兵35名(佐鎮所属)という総計士官32名、下士官兵350名で編成されていた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)