映画『ラヂオの時間』などの脚本家、三谷幸喜さんにはアイデアに行き詰まったときに使う奥の手があるらしい▼シャワーを浴びるそうだ。一日に五、六回とは多い。アルキメデスが入浴中に金の純度の測定法につながるアイデアを思いつき「エウレカ(見つけたぞ)!」と叫んだ逸話を思い出す▼バスルームが隠し場所だったとは、見つけた際は捜査員も「エウレカ!」と叫んだか。トランプ前米大統領が大量の機密文書を持ち出し、スパイ防止法違反などの罪で起訴された事件である。フロリダ州の邸宅のバスルームなどに機密文書を隠していたという▼公開されたバスルームの写真に驚く。機密書類が入ったと思われる紙箱が無造作に山積みされている。機密には核兵器に関する軍事情報も含まれている。人の出入りも多かった邸宅と聞く。ここから機密が流出するようなことがあれば、米国のみならず世界を危険にさらしかねなかっただろう▼この三月に別件で起訴され、訴追は二度目となる。出馬を表明している次期大統領選には致命傷だろうと思いきや、そうでもないらしい▼一連の起訴はトランプ支持者にはいわれなき迫害に映るようで、むしろ結束を強める可能性もある。共和党内の候補選びでも、トランプ氏の優位は今のところ動きそうもない。起訴という冷たいシャワー。それでもトランプ信奉者の目は覚めない。
一九八三年、谷川浩司さんは二十一歳二カ月で将棋の名人になった。史上最年少。勝った翌日から色紙を求められ「前進」などと書くも、署名に「名人 谷川浩司」と書けず「谷川浩司」とだけ記した▼名人戦以外はタイトルの挑戦者にもなったことがなかったのに、最も歴史があり別格とみられる称号を初挑戦で得た。ふさわしい実力はないと思っていたという▼名人奪取前、棋士仲間らも「時期尚早」とみていると視線で感じた。三連勝してあと一勝に迫り、対局から神戸の家に戻る新幹線で「自分はとんでもないことをしているのでは」という気持ちに襲われたと著書で明かしている▼谷川さんの史上最年少名人の記録を、藤井聡太さんが四十年ぶりに破った。二十歳十カ月。竜王など六冠保持者として名人に挑んだが、七冠目を「時期尚早」とみていたファンは恐らくいまい。実力者にまた、ふさわしい称号が加わったというべきだろう▼本人は「とても重みのあるタイトルだと思うので、今後それにふさわしい将棋を指さなければ」と話した。慎み深く高みを目指す姿に凄(すご)みを感じる▼谷川さんは八四年、名人位の防衛を果たし「弱い名人から並の名人になれたと思います」と語った。謙虚な物言いもまた、後に最年少記録を破る若人が受け継いだかのよう。並々ならぬ器量に見えるその人は一体、どこまで伸びるのだろう。
故・瀬戸内寂聴さんの『夏の終(おわ)り』は自身の恋愛に基づく小説として知られる。本名の瀬戸内晴美時代の一九六三年、女流文学賞を受賞した▼主人公は旅先のソ連で、日本で待っているはずの深い仲の男の死をその妻から告げられる夢を見る。不安を覚えつつ旅を続けて帰国するが、こんなくだりがある。「スプートニクを飛ばしている一方、航空便が二カ月もかかって日本へ着くような奇妙な文明国のソ連内からは、安否のききようもなかった」▼東西冷戦期の五七年、人類初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ、覇を競う米国を慌てさせる一方で不便が多い国を「奇妙な−」と皮肉っている▼北朝鮮が軍事偵察衛星「万里鏡(マンリギョン)1号」を載せたロケット打ち上げを試みたが、失敗した。名の通り、遠くまで見る能力を得て米国、韓国、日本の艦艇や兵器の配置を把握したいらしい▼冷戦期同様の分断が続く朝鮮半島で体制を守るには欠かせぬと考えているのか、再挑戦するという。だが、国は食糧難で餓死者も出ていると聞く。金に糸目をつけぬ軍事的野心と足元の貧しさのギャップ。昔のソ連に劣らず「奇妙な」感を覚える▼ロシア語のスプートニクには、同行者や人生の伴侶という意味もある。なるほど衛星は、ロシア人に限らず権力者にはよき伴侶か。体制との同行を強いられる民は今、半島の北側で何を思うのだろう。